連載:東京五輪世代、過去と今と可能性

杉岡大暉を成長させた湘南での熱い日々 東京五輪世代、過去と今と可能性(7)

川端暁彦

連載7回目に登場するのは、1年でのJ1復帰を決めた湘南のDF杉岡大暉だ 【スポーツナビ】

 2017シーズンのJ2リーグを制し、1年でのJ1復帰を決めた湘南ベルマーレ。高卒ルーキーながら、チームで開幕スタメンを奪い、優勝に大きく貢献したDFがいる。

 連載第7回目に登場するのは、そんな湘南の19歳、杉岡大暉である。今年5月のU−20ワールドカップ(W杯)では左サイドバック(SB)として、ワールドクラスの選手たちとのマッチアップも体感し、来季はJ1での飛躍も期待される。そんな杉岡に湘南での日々を聞きつつ、ここに至るまでの足跡を振り返ってもらった。(取材日:8月31日)

「こんなに試合に出られるとは思っていなかった」

杉岡は「こんなに試合で使ってもらえるとは思わなかった」とここまでを振り返った 【Getty Images】

――まずは名古屋に一人旅に行った話を聞かせてください。

 いやいや、(しゃべったのは)誰ですかね(笑)。オフの過ごし方がそんなに行動的ではないので、家でダラダラしてしまうことが多かったんです。だから、久しぶりの2連休をもらったときに、「またダラダラするだろ、もっと動けよ」と野田(隆之介)選手など、ほぼ全員に言われました(笑)。

――「家でゴロゴロしてるんじゃない」と。

 そうですね。だから美味しいものが食べたいと思ってひつまぶしを食べに、名古屋へ行きました。その後、大阪に行って(市立船橋高校時代の同級生である)高宇洋ともご飯を食べて帰ってきたんですけれど、観光とかはしていないですね。ひつまぶしはおいしかったです。

――箱根に寄ったとも聞きました。

 帰りに箱根湯本で降りて(湘南の同僚である)秋野(央樹)くんにオフ前から「箱根に行こう」と言われていたので、拾ってもらって温泉に入って帰ってきました。

――本当に先輩から可愛がられていますね(笑)。

 毎日が充実していますし、自分の思い描いていた以上に結果も出せていますし、すごくいい流れでやれています。そもそも、こんなに試合で使ってもらえると思っていませんでした。今年はまずレギュラー争いと言うか、出たり出なかったりで徐々に評価を上げていければと思っていた。今も別にレギュラーだとは思っていないですが、本当に多くの試合に出させてもらっているので、良い経験をさせてもらっています。

新人離れした振る舞いの杉岡、湘南加入を決めた理由は?

高校卒業時には複数クラブからオファーを受けた杉岡。湘南に加入した決め手は何だったのだろうか 【(C)J.LEAGUE】

「高卒ルーキーとは思えない」。そんな言葉を何度聞いたことだろう。「じじ臭い」という声すらある、落ち着き払った立ち居振る舞いは、ピッチ内外で共通したもの。ミスをしてしまっても、次のプレーではしっかりと切り替えているのも、新人離れした見逃せない個性であり、後述する代表チームでの活躍にもつながった。そもそも複数クラブからオファーを受けた状況で湘南を選んだ理由が、「高校生っぽい」ものではない。

――湘南のサッカーや練習に惹かれて加入を決めたという話を以前にしていましたが、実際に入ってみてどうでしたか?

 本当にキツいです(笑)。(プロに入ったら)どこも高校に比べると、どうしても楽になってしまう部分があると思っていたんですけれど、(湘南は)本当に高校と同じくらいの強度ですし、それ以上にキツいと思うときもあります。そういう面で「本当に選んで良かったな」と思っています。キツいのが自分に合っていると思ったし、自分だけで追い込むのは限界もあると思うので、だから良かったですね。

――市立船橋への進学を選択したのもそういう理由からですか?

 いや、市船はサッカー(のスタイル)とかは関係ないです(笑)。(FC東京のU−15チームから)U−18に上がることができなくて、高校の選択肢が何校かあった時に、一番通いやすくて、なおかつ強豪だったというだけです。

――そう言えば(出身地が千葉県に近い)足立区でしたね。サッカーを始めたのはお兄さんの影響とか。

 はい、そうですね。最初はMTC(美松学園)で、レジスタFCに小学校1年生のときに移りました。ドリブルも好きで、守備も好きで、夢中になってボールを追いかけていました。球際の勝負をベースにやっていたチームなので、それが今も僕の武器。自分のベースですね。

――そこからFC東京U―15深川へ。当時はボランチのイメージでした。

 ボランチでしたね。それも下手くそな(笑)。守備とヘディングだけして、がむしゃらにやっていました。

――しかし、U−18への昇格はできませんでした。

 でも、納得感はありました。「そうだろうな」と。そんなに落ち込むこともなく、市船へ行きました。そこで長身の左利きというのを生まれて初めて評価してもらって、1年生から使ってもらえました。正直、あまりキックも得意ではないと思っていたし、左利きの利点すら分かっていなかった(笑)。それを朝岡(隆蔵)監督が買ってくれました。高校になって、キック力が付いてきたのもあると思います。

――市船で試合に出たばかりのころに「左足のキックは武器になるね」と僕が言ったら、「いや、それは全然ないです」と言われた記憶があります(笑)。

 本当の左利きと言ったら中村俊輔選手(ジュビロ磐田)とか「キックの名手」みたいなイメージがあったので、「自分は違うだろう」と(笑)。でも本当に朝岡監督がそれを重宝してくれていたのか、見てくれて試合にも出してもらったのが、自分の転機になりました。

伝統の「市船」で才能を開花させる

杉岡は千葉の名門・市立船橋へ進学。伝統の強豪校でその才能を開花させた 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 大きな挫折を機にして沈んでしまう選手も少なくないが、躍進の契機とする選手も多い。Jクラブのジュニアユース(U−15)チームからユース昇格を逃してしまった選手の中から、環境を変えて大化けする選手が出てくるのは、本田圭佑(パチューカ/メキシコ)や中村俊輔の例を出すまでもなく、もはや日本サッカーの恒例コースである。杉岡は「市船」というチームが持つ伝統の薫陶を受けながら、その才能を花開かせる。

――市立船橋の朝岡監督からは大きな影響を受けたと思うけれど、あらためてどういう人でしたか?

 本当に細かいし、戦術もしっかりしていて、考え方や人間性のことまで全て言ってくる。本当にすごい人です。監督からはいろいろ学びましたね。2年生の時は「勘違いするな」「隙だらけだ」とよく怒られ続けました(笑)。3年生くらいになったら言われなくなって、信頼してもらえたのかな。3年になってキャプテンになって、監督に近い気持ちになってやれていたのもあると思います。

――いま市船の選手たちに取材をしていると、杉岡くんの名前がよく出てきて「あの人みたいに」という話になる。そういう背中を見せられたのでは?

 3年のころはけっこう、僕も自信を持ってやっていました。それは自分で考えてやれていたことなので、後輩がそうやって見ていてくれたなら、うれしいです。

――それはまさに市船の伝統の力ですよね。先輩を見て、下が育つ。

 僕もやっぱり先輩たちを見て育ったというのはありますね。特に2個上の藤井拓さんは監督から本当に信頼されていて、人間的にもすごかったので本当に尊敬していました。「自分もああならなくては」と自然に思っていました。

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著者プロフィール

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』をはじめ、『スポーツナビ』『サッカーキング』『フットボリスタ』『サッカークリニック』『GOAL』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。近著に『2050年W杯 日本代表優勝プラン』(ソル・メディア)がある

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