連載:東京五輪世代、過去と今と可能性

杉岡大暉を成長させた湘南での熱い日々 東京五輪世代、過去と今と可能性(7)

川端暁彦

日本代表に選出されるも「本当に緊張していた」

内山篤監督(中央)は「大型の左利きDF」という杉岡の素材を買い、世代別代表に抜てきした 【写真:田村翔/アフロスポーツ】

 市船で育ってきた芽を当時U−17日本代表の監督をしていた内山篤監督が見いだした。大型の左利きという素材感も買っての大抜てきで、杉岡は生まれて初めて日の丸を付けることとなる。

――初めて代表に呼ばれたのは高校2年生だった。その時はどうだった?

 もう本当にびっくりしましたね。監督に言われる前にツイッターで(情報が)流れているのを見て知りました(笑)。本当に(代表とは)無縁だったので、トレセン(地域の選抜研修会)とかも中学からは全然選ばれなかったので、本当にびっくりしましたね。

――千葉の県トレ(県選抜)にも入っていない?

 入っていないです。だから代表なんて考えたこともなかったですね。本当に信じられなかった。自分の代の代表がU−17W杯の予選で負けていましたけれど、それも「イ・スンウ(韓国のエース)、すごいなあ」と完全に他人ごとだったくらいです(笑)。

――実際に入ってみてどうだった?

「そんなにレベル差はないかもしれない」とは思いました。ただ、市船でもセンターバック(CB)をやっていたので、左SBは正直、嫌でした(笑)。当時は今よりさらに足も遅かったので、「向いていないだろう」と思いながらやっていました。

――それが高3になって、今度は1個上のチームにも呼ばれた。

 いや本当に、もう本当に、緊張しましたね。だって名前がやっぱり……堂安律(フローニンゲン/オランダ)とか(笑)。

――堂安は同い年でしょう(笑)。

 同い年ですけれど、律だけじゃなくて中山雄太(柏レイソル)、三好康児(川崎フロンターレ)、坂井大将(テュビズ/ベルギー)……。もう名前を見ただけで「いや、絶対この人たちとはレベルが違うだろう」と思いながら、本当に緊張していました(笑)。実際にみんなうまくて、最初は怖がってやっていた部分があります。「まあ残れないだろうな」と思っていました。

ライバル・原輝綺の存在がさらなる躍進のきっかけに

市立船橋でCBコンビを組んでいた原輝綺。代表の正メンバーに選ばれた原を見て、悔しさを感じたという 【(C)J.LEAGUE】

 初めて呼ばれた1つ上の代表。完全に名前負けした上で絶望的な差を体感した杉岡だが、シンプルな転機が訪れる。市立船橋でCBコンビを組む相棒、原輝綺(アルビレックス新潟)が招集を受け、そのまま正メンバーに食い込んでいったのだ。


――そんな中で、原選手が杉岡選手より後に選ばれてメンバーに残りました。

 原が選ばれたことで悔しさが生まれました。怖がっていた自分が馬鹿馬鹿しいなと思えた。本当にあいつのせいで、いや、あいつのおかげでと言うべきなんでしょうね(笑)。悔しい気持ちが芽生えましたね。本当に悔しかったです。

――原くんも似たようなことを言っていました。翌年にJリーグで開幕スタメンを目指したのも、そこまで見ていたから?

 試合に出ていれば絶対に選んでくれるとは思っていましたし、そこはすごく理想通りでした。ただ、実際(U−20)W杯に関しては正直、入れないかなとも思っていました。選ばれてうれしかったです。

――そのU−20W杯ではイタリアとの第3戦で初先発。しかも対面がイタリアで1番すごい選手(リッカルド・オルソリーニ)だったし、立ち上がり早々に点を取られて、けっこうシビアなスタートだったと思います。

 本当に焦りましたね(笑)。0−2になって、俺が出たから負けるのかと……。危機的状況でした。ただ、自分の中では整理できていたというか、「終わったことはしょうがない」と切り替えていました。曹(貴裁監督/湘南)さんにも朝岡監督にも言われていたことですが「同じミスをしちゃダメ」と。切り替えて、次のプレーに影響させないようにしていました。

――見事に立て直しましたよね。そして次のベネズエラ戦でも、対面の右ウイングがA代表でW杯予選にも出ている(アダルベルト・)ペニャランダでした。

 海外遠征に何回か行かせてもらっていましたけれど、そういう“ホンモノ”の相手とはやったことがなくて、本当にそういう世界レベルの相手とやりたかった。

「すごい」と言われている選手と対面でバチバチやりたかったので、試合前から本当に楽しみでした。映像を観た感じから、本当に強い相手なのは分かっていましたけれど、ビビることなく「やってやろう」という気持ちでやれました。

――かなり抑え込めていたと思います。

 でも前には出て行けなかった。攻守にわたって、やっぱりもっと運動量を増やしていきたいなと思いました。代表では本当に良い経験をさせてもらえて、SBに抵抗がなくなって、(湘南では)ウイングバックもやらせてもらった。どのポジションも意欲的にやれています。

ライバルからの刺激と湘南での日々を経て、成長を遂げていった杉岡。あらためて、3年後の姿を見てみたくなった 【Getty Images】

――湘南に来てからも日進月歩という感じだけれど、自分の3年後はどうイメージしていますか?

 これと言った武器はないので、本当にどれもレベルアップしたい。あとは左足のキックですね。キックやクロスに関しては、もっと「左利き」というのを生かして、武器にしていきたいと思っています。でも、本当に自分はまだまだなので、ここからもっと全部のことを練習して、良くなっていければと思っています。


 市立船橋の朝岡監督は以前「人から言われなくても努力できる子」として杉岡の名前を挙げていたことがあった。その源泉であるナチュラルな謙虚さが代表では当初裏目に出てしまったが、ライバルからの刺激と湘南での熱い日々が、彼を一段階上のステージに押し上げた。今季のJ2で見せた「成長力」を思えば、U−20W杯での奮戦はまだ「片鱗(へんりん)」に過ぎないだろう。あらためて3年後の東京五輪で、ここからさらに大きく強くなり、それでいて持ち前の謙虚さを失わない杉岡大暉を見てみたくなった。

杉岡 大暉(すぎおか だいき)

1998年9月8日生まれ、東京都出身。182センチ、75キロ。レジスタFCからFC東京U−15に加入するも、U−18への昇格はかなわず、千葉県の名門・市立船橋高に進学した。2016年には主将としてチームをまとめ上げ、高校総体優勝を果たすなど、高い守備能力とリーダーシップの高さを示した。17年に湘南ベルマーレに加入後は、開幕戦で先発フル出場を果たし、CBとしてレギュラーに定着。順調に出場機会を増やしている。日本代表では5月に行われたU−20W杯のメンバーに選出され、2試合に出場した。

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著者プロフィール

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』をはじめ、『スポーツナビ』『サッカーキング』『フットボリスタ』『サッカークリニック』『GOAL』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。近著に『2050年W杯 日本代表優勝プラン』(ソル・メディア)がある

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