連載:東京五輪世代、過去と今と可能性

無名だった原輝綺が日の丸を背負うまで 東京五輪世代、過去と今と可能性(5)

川端暁彦

世界大会を目前に控える中、原に現在の心境を語ってもらった 【写真:川端暁彦】

「U−23」という独特のカテゴリーで行われる五輪の男子サッカー競技。2020年の東京五輪まであと3年と迫った今年、この選手たちが5月20日に開幕するU−20ワールドカップ(W杯)という初めての大舞台を迎える。この連載では、そんな「2020年」のターゲットエージに当たる選手たちにフォーカス。彼らの「これまで」と「未来」の双方を掘り下げていく。

 第5回に登場するのは、今季市立船橋高校からアルビレックス新潟に加入し、開幕からレギュラーポジションをつかんで躍動を見せているMF原輝綺だ。中学までは無名選手であり、高校に入ってからも決して華々しいスター街道を歩んできた選手ではない。だが、驚くほど「地に足が着いた」という表現が似合う18歳は冷静に自分を見つめながら、階段を登るかのように成長を続けている。世界大会を目前に控える中、その心境と志に迫った。(取材日:2017年4月27日)

一瞬でサッカーのとりこになった少年時代

J1第10節ではプロ初ゴールを決めた原(34)。意外にも昔は野球少年だったという 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

――ルーキーとして臨む17シーズン、ここまでで手応えを得たのでは?

 すごくいい経験をさせてもらっています。チームとしては結果が出ていないので「充実している」と言っていいのか分からないですけれど、得るものが本当に多い時間を過ごせていると思います。(チームが低迷することで)追い込まれている状況を経験できていることも、前向きに捉えていきたいと思っています。

――まずは原選手のルーツについて聞きたいと思います。サッカーを始めたきっかけは「友達のお母さんに勧められたから」だそうですが、これはどういう状況だったんですか?

 最初は野球をやっていたんです。父が野球選手だったので、自分も自然と野球をやっていました。小学校2年生の始まりくらいだったと思いますが、小学校に素振りをしに行ったら、(サッカーの)チームが練習をやっていました。そこで1人で素振りをしていたら、友達のお母さんから「一緒にサッカーやってみない?」と誘われました。その場に父がいたらどうなっていたか分からないですが、1人だったので「じゃあ、やってみよう」と。

――そうしたらサッカーが楽しくなった?

 はい、楽しかったですね。一瞬で、もう(笑)。

――お父さんのリアクションは?

 あまり覚えていないですが、多分相当悔しがっていたと思います(笑)。

――それは埼玉県の金子小学校のチームですよね?

 はい。ただ、小学校のチームは土日しか活動していなかったので、「平日も練習をやりたい」と親に言いました。そこで探してきてくれたのがレイソルS.S.青梅(現・AZ‘86東京青梅)でした。そのスクールに入り、平日はそこで練習をしていました。小4に上がるときにスクール生からチーム生になるセレクションがあって、そこから(所属も)青梅になりました。

――県境を越えるけれど、家から遠くはなかった?

 自転車で行っていました。1つ(の練習場)は自転車で10〜15分くらいで、あとは40〜50分くらいかけて通っていました。小学生のころから1人で自転車で行っていて、それが普通のことだと思っていました。

――強い運動部がたくさんある市立船橋の校内マラソン大会で、2年連続1位になったという持久力の秘密はそこにあったんですね。

 いやあ、どうですかね。マラソン大会も陸長(陸上部の長距離部門の選手)が出ていないので、その中で1位というだけです。それだけなので、大したことはないと思います(笑)。

原の前に現れた「2人の目利き」とは?

原は「名門中の名門」である市立船橋に進学。そこで「恩師」の佐藤コーチと出会う 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 お父さんの心中は察するに余りある。実は原の弟(鹿児島実業高校)もサッカーを選んでいるのでなおさらだが、原少年にとっては何とも運命的な出会いだったわけだ。1人で素振りを続けていた野球少年は、サッカーに打ち込む中で少しずつ成長を遂げていく。決して有名な選手ではなく、年代別代表はもちろん、東京都の選抜にも入っていない選手だったが、やがてその才能に気付く人たちも現れた。

――恩師として、佐藤陽彦さん(現・市立船橋コーチ。かつては京都サンガF.C.やサガン鳥栖でプレーしていた)を挙げていました。

 あの人がいなかったら、いまの僕はないと思います。(市立船橋には)攻撃の選手として入ったので、後ろにコンバートされたときには守備のことなんてまったく分からなかった。本当にお世話になりました。

 DFとしてもそうですし、ボランチでもどう(相手を)誘い出すか、相手の出すところをどう盗み取って、どう読み勝つかという守備を教えてもらいました。相手の一手先二手先を読んで守備をするように言われて、厳しく教えられましたね。あれがなかったら、本当に(今の自分は)ないと思います。守備のベースを作ってくれたのは佐藤コーチです。

――そもそも市立船橋に入ったきっかけは何ですか? 立正大淞南と迷ったと聞きましたが。

 そうですね。迷いましたが、最終的には市船(市立船橋)の方が(全国大会での)優勝回数が多く、「名門中の名門」という印象があった。中学校の時は前(前線の選手)だったので、前で活躍したいという思いもありました。あと千葉の方が(実家から)近かったので(笑)。

――「掘り出し物を見つけた」と思っていた立正大淞南の人たちは後々まで悔しがっていました。

 会った時には言われます(笑)。中学のころはずっと無名で、トレセン(地域の選抜講習会)では、入ったとしても近場のクラブチームの選手たちが集まる段階まで。全然知られていない選手だったので、そこで声を掛けられたのは、自分のなかではハテナでしかなかったです。

 すごく迷いましたけれど、市船を選んで良かったと思っています。新チームの段階では(Jクラブから)声は掛かっていませんでしたが、(Jリーグに)行きたいという気持ちはありました。大学に進学するにしてもお金がかかるので、どこでもいいからJクラブに入りたいと思っていた中で、徳島(ヴォルティス)と新潟が声を掛けてくれました。

「(2チームから声を掛けられたのは)中学から高校に上がるときと似たような感じだな」と。無名だった僕に声をかけてくれたのは本当にありがたくて……。両チームとも練習に参加させてもらって、最後は新潟に決断しましたが、徳島にも本当に感謝しています。

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著者プロフィール

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』をはじめ、『スポーツナビ』『サッカーキング』『フットボリスタ』『サッカークリニック』『GOAL』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。近著に『2050年W杯 日本代表優勝プラン』(ソル・メディア)がある

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