連載:東京五輪世代、過去と今と可能性

マイペースな藤谷壮に感じる頼もしさ 東京五輪世代、過去と今と可能性(6)

川端暁彦

U−20W杯を経て感じたことは何だったのか。神戸の藤谷壮に話を聞いた 【写真:川端暁彦】

「指導者が教えられないスーパーなモノを持っているかどうか」

 今年7月までU−20日本代表を率いていた内山篤監督が選考基準として持っていた1つの指標である。それは突出したセンスかもしれないし、身体的な特長かもしれない。いずれにしても、A代表で求められるのは「何か」を持っている選手だろうという基準点である。

 連載6回目に登場するヴィッセル神戸の右サイドバック、藤谷壮はまさにそうした基準の中から抜てきされ、重用されてきたタレントだった。代表初招集直後から世代のトップを走る不動の存在となったかと言えば、そういうタイプではない。圧倒的なスピードでサイドを疾駆するスタイルとは裏腹に、着実に少しずつ成長の歩みを進めてきた選手である。

 そして迎えたU−20ワールドカップ(W杯)。1つの節目となる大会で、藤谷は確かに圧倒的なスピードという「スーパー」な資質を見せ付けることとなった。(取材日:2017年8月17日)

神戸の下部組織を受けたのは「嫌々」だった!?

神戸の下部組織への挑戦は「嫌々」だったという藤谷だが、周囲の評価は飛躍的に高まっていった 【(C)J.LEAGUE】

――まず、サッカーを始めたときの話を聞かせてください。これはお兄さんの影響ですか?

 兄の試合があると、家に僕1人というわけにもいかないので、試合に連れていかれました。でも、それが嫌でした。兄に憧れて始めたというより、見ているだけというのが苦痛でした。(サッカーを始めたのは)通っていた小学校のチームです。弱かったです。

――では、強いチームに行きたくて小学校の途中からヴィッセル神戸ジュニアへ?

 いえ、父に勧められたからです。「受かれば自信になるぞ」と。でも、元々いたチームでやるサッカーが楽しくて、どこか満足していました。だから正直に言うと、嫌々受けたんです(笑)。

――そうしたら受かってしまった。

 自分の何かを買ってもらったのだと思いますが、ギャップはありましたね。それまではスピードだけでサッカーをしていた感じだったので、サッカーにフォーメーションがあるということすら知らなかった。

 何も知らないところをイチから教えてもらうような感じでした。それまでは普段からおちゃらけた感じで過ごしている子供だったので、敬語を使うこととか、あいさつもできていなかったし、時間を守れということも言われて……。まあ、いい加減だったんです(笑)。

――当時のポジションは?

 FWで入りましたが、ちょっと経ってからセンターバックになりました。本格的にサイドバックになったのは中学に上がってからすぐですね。正直、初めからやれてはいなかったと思います。教えられることを1個1個、何とかやっていく感じで。

――当時の憧れの選手は?

 他人の試合を見るのが嫌いな子供だったので。でも、ベッカムヘアにはしてもらっていました(笑)。

――神戸の関係者からは「おっとりしているところがあって、そこはお父さんと似ている」という話も聞きました。

 友達からも「壮はマイペースだ」とよく言われます。でも、サッカーでプロの世界へいく選手はみんなちょっと変わっているところがあります。自分が飛び抜けて変だとは思わないですね(笑)。(一学年先輩の)山口真司選手とか、他にもっとマイペースな人はいるので。

――マイペースと言えば、高1でトップチームのキャンプに大抜てきで呼ばれたとき、参加できなかったという話も……。

 胃腸炎になってしまったんです。でも、自分の中ではユースの試合にようやく付いていけるようになったくらいの感じだったので、急にトップの練習へ呼ばれても、「いや、まだユースのレベルなんだから」と思ってしまって。普通なら舞い上がるのかもしれないけれど、「まだ早いな」と。自信はなかったです。

――じゃあ、病気で合宿に参加できなくても?

 まあ、それでいいかな、みたいな(笑)。

 やはり、確かにマイペース。弟キャラなのかもしれない。ただ、実際のところを言えば、本人の思いとは別に、当時は周囲の評価が飛躍的に高まっている時期だった。高校2年で飛び級選手としてU−19日本代表にも招かれ、違うステージも経験することになる。

高2で「飛び級」を経験し、U−19代表に招集

14年には高2ながら「飛び級」で、U−19代表に選出された 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

――14年には高2で「飛び級」を経験して、U−19代表にも呼ばれました。

 自分の代でもそんなに呼ばれていなかったので、「ここに選ばれる選手じゃないんじゃないか」と思っていました。試合でも通用していない感じがしましたし、シンプルに技術面が届いていませんでした。試合のスピード感も、自分がプレーしていたカテゴリーとは違っていて、心理的にもキツかったです。

 神戸U−18のサッカーは、しっかりボールを回して相手を押し込んで、自分が好きなときにパッと出ていく感じですけれど、代表では守備で戦うところも強く求められながら、また何度も上がっていくことを要求されて、最初は難しかったです。もう「自分にこれはできないな」というネガティブなイメージを持ってしまいました。

――逆に自分の代の代表(U−18)では?

 やはり、感じ方が少し違いました。内山監督のチームには立ち上げ当初から選んでもらっていて、段々と「絶対にこの代表に残りたい。また選ばれたい。先発で出たい。負けたくない」という気持ちが強くなっていきました。他の国の代表選手と戦えることが自分の中でプラスになっていくのが分かってきましたし、代表のことをすごく大切に思えるようになりました。

――内山監督の代表チームが立ち上がった高3のシーズンはトップチームでの出場も果たして順風満帆でしたが、翌年のプロ1年目はリーグ戦出場がゼロと苦しみました。

 確かにそうです。でも、高校生のときにトップチームで浦和レッズとの試合に出させてもらったときに「うわあ、これは差があるな」と、どっしりと重く感じていたので。やっぱりユースのサッカーと違って、トップでは守備のところをすごく細かく、強く要求されるというギャップもありました。

 プロ1年目は「これは出られなくても仕方がない」と納得感もありました。フィジカルをしっかり作らないといけないとも思っていたので、周りからは「試合に出なければいけない」と言われていましたけれど、自分自身ではそこまで落ちていなかったですね。基礎を固めていけたシーズンだったと思っています。

――実際、体が大きくなりましたよね。

 体重も4、5キロ増えました。コンディショニングトレーナーの田中章博さんに筋力トレーニングのやり方をしっかり教えてもらいながらやっていきました。あとは寮に入ったので、そこでしっかり栄養を摂ってという感じでやっていたら、体もできていました。

――戦術的な部分も、トップチームで鍛えられたところはあると思います。

 高3のときはトップチームと代表チームと神戸U−18の3チームで、違う戦術の中でプレーすることで混乱してしまった部分もあったと思うのですが、いろいろなサッカーに触れたことも大きかったと思います。相手を見て、そこに対応してサッカーをするというのも分かってきましたし、それは世界大会にもつながった部分だったと思います。

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著者プロフィール

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』をはじめ、『スポーツナビ』『サッカーキング』『フットボリスタ』『サッカークリニック』『GOAL』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。近著に『2050年W杯 日本代表優勝プラン』(ソル・メディア)がある

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