岡田オーナーとの信頼関係、描くビジョン 小野剛が語る「何でも屋」の矜持<後編>

宇都宮徹壱

自らを「何でも屋」と称する小野剛。そのキャリアを振り返ると、岡田との強いつながりが見えてくる 【宇都宮徹壱】

 今季よりFC今治の育成副部長(コーチディベロップメントマネージャー、U−13コーチ)に就任した小野剛は、自らを「何でも屋」と称する。確かにこの人の才能は、実に多岐にわたる。育成プログラムの立案者であり、指導者育成のインストラクターであり、スカウティングのプロであり、監督の参謀役であり。映像の編集まで自分でやってしまう。「何でも屋」というと、何やら器用貧乏のようなニュアンスを含んでいるように思われるかもしれない。が、「これほど心強いパートナーはいない」と考える人のほうが、むしろ多いようにも思われる。

 FC今治のオーナーである岡田武史も、小野の才能を高く評価する1人だ。初めて日本代表監督となったときも、中国の杭州緑城を率いることになったときも、その傍らには小野の姿があった。ただし両者は、単なる主従関係というわけではない。岡田の二度目の日本代表監督就任、そして中国への挑戦の道筋を開いたのは、実のところ小野の功績であった。両者の長年にわたる信頼関係があったからこそ、今治の地で再びタッグを組むことになったのも必然だったのかもしれない。インタビューの後編では、岡田とともに歩んできた小野のキャリアについて振り返ってもらった。(取材日:2017年5月13日。文中敬称略)

岡田武史と語り合ったアトランタ五輪

W杯フランス大会予選からコーチを務めた小野。岡田と親密になったきっかけはアトランタ五輪の時だった 【写真:ロイター/アフロ】

──そろそろ岡田さんとの出会いについてお聞きしたいと思います。小野さんはワールドカップ(W杯)フランス大会の予選で、岡田さんからコーチに誘われるわけですが、そもそもの接点はどこだったのでしょうか?

 最初がいつだったのかは、あまりよく覚えていないんですよね。ただ、親密にお話するようになったのは、アトランタ五輪(1996年)の時でした。僕は西野(朗/当時五輪代表監督)さんの下で分析担当だったのですが、日本が(グループリーグで敗退して)大会を去ってからも決勝まで残ってテクニカルレポートを書いていたんです。その時、岡田さんも視察に来ていてずっと一緒だったんですよ。

──岡田さんは当時、A代表の監督だった加茂周さんの下でコーチをされていましたね。

 そうです。岡田さんは加茂さんのアシスタントとして、そして僕は日本サッカーの今後の指針のために、2週間くらい一緒に残っていろいろな話をしていました。

──その後、小野さんは岡田さんが監督になった日本代表のスタッフになるわけですが。

 実は、表に出るリストには入らない感じだったんですけれど、加茂さんが監督のときからスタッフとして働いていました。アトランタ五輪でやっていたような、ビデオなどを使いながら相手チームの分析をして戦略を練るという手法をA代表にも取り入れたいと、岡田さんから言われたんですね。それで、集めてきたデータを検証しながら「日本が勝つためにはどうすればいいか」ということを、岡田さんと一緒にいろいろと考えました。

──その後、代表監督が加茂さんから岡田さんに代わると、スライドするような形で小野さんも参謀役になっていったと。それにしても驚きました。映像によるスカウティングが今では当たり前のことですけれど、加茂さんが代表監督をやっていた頃までなかったということですか?

 僕の口から「なかった」と言い切るのは難しいですが(笑)、分析という観点ではアバウトな時代だったかもしれませんね。ビデオの編集なんかも、僕がやっていたくらいですから。

──編集も!? 本当に何でも屋だったんですね(笑)。

 何でも屋です。映像編集の先駈けですよ。これはW杯が終わってからの話ですが、ちょうどアップル社がPCで動画を編集できるソフトを開発したので、わざわざ大阪まで講習を受けに行きましたから。ほとんどがテレビとか映画の関係者ばかりでしたね。映像の専門用語が分からない中、何とか食らいついていくような感じでマスターしました。ですから、代表スタッフでスカウティングの担当をしていた和田(一郎)なんかも、ほとんど僕の弟子みたいなものですよ(笑)。

フリーの立場で貢献したW杯南アフリカ大会

2007年末に岡田は再び日本代表監督に就任する。当時、説得に当たったのが小野だった 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

──日本がW杯初出場を決めた「ジョホールバル(の歓喜)」から10年後の2007年、当時のイビチャ・オシム監督が病で倒れ、日本代表監督の後任に再び岡田さんが選ばれました。この決定にも、小野さんは深く関与されていたそうですが。

 そうですね。JFA(日本サッカー協会)の技術委員会の中に「代表小部会」というのがあって、僕はそこの委員長も兼ねていました。その中で、外国人の指導者も含めてリストアップして、優先順位も決めていたんですが、そのトップにいたのが岡田さん。オシムさんが倒れた頃、チーム状態は非常に良かっただけに、監督を代えるには非常に難しいタイミングでした。

 外国人監督を呼ぶとなると、おそらく前任者の色を消してから自分の色にしていく傾向が強いだろうと。しかもW杯予選まで時間がない。やはり外国人監督だとリスクがある。むしろ日本サッカーに対する忠誠心や思いといったものを、第一に考えなければならないと考えました。

──そうなると、やはり岡田さんしかいないと。当然、立場的に小野さんが交渉に当たるわけですが、説得するのは大変だったのではないですか?

 そりゃあ大変でしたよ(笑)。実はオシムさんが倒れる2週間くらい前にお会いする機会があって、「日本代表監督ほど割の合わない仕事ないよ。本当にボロボロになるし、家族も疲弊するし」というような話を一緒にしていたんですよ。再びあの渦の中に巻き込むのは、忍びないというのはありましたね。ですから最初は交渉ではなく、自分の思いだけをお伝えしました。すると岡田さんは「まあ、分かるけれど、やらないと思うよ」と。まずはそこからのスタートでしたね。

──岡田さんに決断させたものは何だったのでしょうか?

 やはりサッカーそのものに対する思いだと思います。皆が築いてきた日本サッカーの灯火(ともしび)を絶やしてはいけないという思い。それと、チャレンジし続けなければならないという信念もあったのかもしれない。それはご本人にしか分からないと思いますが。

──W杯南アフリカ大会は、小野さんは現地でご覧になられたのでしょうか?

 僕はその前(10年)の4月にJFAを辞めていたんです。ただ、そのほうが自由は効くので、(日本が対戦する)カメルーンやデンマークの偵察をして分析していたんですよ。それをスイスでキャンプをしていた岡田さんに渡して。最終メンバー選考についても、逆に気軽に話せる立場になったと思います。そんなこともあって、あのチームには今でも思い入れはありますね。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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