今治にやって来た理由、育成への思い 小野剛が語る「何でも屋」の矜持<前編>

宇都宮徹壱

FC今治で育成コーチを務める小野剛。輝かしい経歴を持つ男が今治にやってきた理由とは? 【宇都宮徹壱】

「さあ、今のゲームで良かったところと良くなかったところは何か。みんなで考えてみよう!」

 ホイッスルが鳴って子供たちが集まると、グラウンドに聞きなじみのある高い声が響く。声の主は、今シーズンからFC今治の育成副部長(コーチディベロップメントマネージャー、U−13コーチ)に就任した小野剛。指導を受けているのは、今年中学生になったばかりの地元の子供たちだ。小野は、時に子供たちの動きを注意深く観察し、時にアクションを交えながらポイントを絞って指導する。とはいえ、自分の考えを押し付けることは決してせず、できるだけ子供たち自身が考える機会を与えようとする。

 21世紀に生まれた子供たちは知るよしもないだろうが、四国の地方都市にあるJFLクラブの育成組織で、この人が子供たちの指導をしているというのは、実はものすごいことなのである。それは、これまでの小野の肩書を並べてみれば一目瞭然。日本サッカー協会(JFA)強化委員会委員、サンフレッチェ広島ユースダイレクター、ワールドカップ(W杯)フランス大会日本代表コーチ、JFAユースダイレクター、同技術委員長、FIFA(国際サッカー連盟)インストラクター、そしてサンフレッチェ広島とロアッソ熊本ではトップチームの監督も務めている。

 そんな輝かしい経歴を持つ小野は、なぜ今治にやってきたのか。岡田武史オーナーに誘われたから? 確かに正解ではあるけれど、それがすべてではない。かつてはJFAの育成の要職にあった男が今治に来たのは、単なる義理や人間関係だけで語れるほど単純な話ではないのである。まずは小野のこれまでのキャリアを振り返りながら、30代でJFAの強化委員となった経緯、岡田オーナーとの出会い、そしてFC今治のプロジェクトについて思うことなど、じっくりと語ってもらった。(取材日:2017年5月13日。文中敬称略)

今は地道な努力を続けていくしかない

指導者は、あくまでも黒子に徹する。小野のスタンスは監督時代から変わらない 【宇都宮徹壱】

──小野さんが子供たちに直接指導する姿は、非常に新鮮に感じられました。今日は中学1年のチームでしたが、この年代を教えるのは久しぶりですか?

 育成年代を専属で指導するのは久しぶりですね。FIFAのインストラクターとして、特に2010年と11年の2年間は、フルタイムで活動していましたので、育成年代の指導も入ってきます。ただ、指導者への指導や強化プランの策定などの仕事もあるわけで、子供の指導でどっぷりという感じではなかったです。

──今治を含む東予地方の子供たちのレベルはいかがですか?

 率直に言って、ちょっと(全国と比べて)差はあると思っています。プレッシャーがある中でも、落ち着いてボールをコントロールしたりパスしたり、という部分で特にそう感じます。

 まあ、一朝一夕でいく話ではないですけれど、今指導している子どもたちをしっかり伸ばしていくことと、一般の子供たちに対してもサッカーに触れる機会を増やしていくことを両輪に考えて、地道な努力を続けていくしかない。サッカーをする子供たちが増えていけば、その中から能力の高い選手が出てくるでしょうから。

──練習中、子供たちに意見交換をさせていました。これは小野さんのスタイルですか?

 そうですし、今治のスタイルでもあるんです。「こういう場合、どうするべきか」というのを、トレーニングの中で選手たちに意見交換するように仕向けるんです。指導者が「こうすべき」と押し付けるのではなく、まず自分たちで考えて、自分たちで発見しながらプレーに反映させていったほうがずっと効果的だと思います。そしてわれわれ指導者は、あくまでも黒子に徹する。私自身Jの監督時代から、そういうスタンスでやっていました。

──子供たちは、きちんと意見が言えるんでしょうか?

 もちろん、最初はもじもじしていましたよ。少し活発になってきたかなと思うと、2日後くらいにまた下がってしまう(笑)。でも、ちょっとずつ変わってきています。トレーニングと一緒で、こういうのは習慣ですからね。ですからこちらも地道な働き掛けをして、彼らが自分たちでつかんでいく機会というものを極力増やしていくようにしています。

熊本からホン・ミョンボの参謀役を経て今治へ

小野(右から2番目)が今治に加入したのは今季だが、以前から岡田オーナーに誘われていたことを明かした 【宇都宮徹壱】

──小野さんは15年までロアッソ熊本の監督をされていました。今治に来るまでの間はどちらにいらしたんでしょうか?

 去年は中国の杭州緑城で、監督のホン・ミョンボのサポートというか参謀役をやっていました。育成は別の日本人スタッフがいたんですけれど。

──岡田さんも杭州緑城のアドバイザーをやりつつ、昨年から今治の育成スタッフを送り込んでいます。そこから小野さんが今治に来る流れができていたのでしょうか?

 うーん、そういうことではないですね。それ以前から今治にはちょくちょく行っていて、岡田さんから「いつこっちに来るんだ?」と毎年のように言われていたんですよ。どこまで本気だったかは分からないですけれど(苦笑)。そうしたら去年の7月、(フィジカルトレーナーの)池田正剛がFC東京から戻ってきたんですよ。

──確か監督の城福(浩)さんが退任になって、一緒にFC東京を離れたんですよね。

 そうです。彼は韓国代表でもミョンボと一緒に仕事をしていましたから、これは(自分が離れても)大丈夫だろうということで、緑城の仕事はそのシーズンいっぱいで切り上げて、岡田さんには「行けます!」とお伝えしました。

──とはいえ、FIFAの仕事をやって、JFAの育成の要職につかれていた小野さんが、いきなりJFLクラブで育成を見ることになったというのは、周囲もかなりびっくりしたんじゃないでしょうか?

 確かに、今の子供たちの親御さんとかは驚いているみたいですね。ただしJFAで技術委員長をやっていた時も、サンフレッチェで監督をやっていたときも、常に育成の重要性は意識してきたし、周囲にも訴え続けてきましたから。それに自分では、子供たちの指導だけでなく、コーチの育成も対戦相手の分析もやる「何でも屋」だと思っています。ですので、今治の現場に飛び込むことについても違和感はまったくありませんでした。

──ご自身の中では、カテゴリーがどうであれ、やってきたことは変わっていないと?

 変わっていないです。実は大きいクラブからのオファーもありました。ただ、四国の小さなクラブがビッグクラブに太刀打ちするにはどうすればいいかというチャレンジは、「日本が世界に打って出るにはどうすればいいか」というJFAの技術委員長時代に取り組んでいたテーマと、実はそんなに変わらないんですよね。岡田さんの壮大なビジョンの下、自分の好きなチャレンジがいい具合で結びついているというところはあります。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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