錦織圭、成長とともに訪れた意識の変化 「自分のため」から「日本のため」へ

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グランドスラムとは違う、もう一つの夢

日本のために戦いたい――錦織が強く持つ思いの背景に迫る 【坂本清】

 テニスには「ゴールデン・スラム」と呼ばれる名誉がある。
 全豪、全仏、全英、全米の四大大会、いわゆる「グランドスラム」を制し、なおかつ五輪で金メダルを獲得する偉業を指す。1924年のパリ大会を最後に正式競技から姿を消し、88年ソウル大会で復帰したが、テニスにおける五輪の位置付けは決して高くはなかった。しかし、2000年のシドニー大会から成績に応じてツアーのランキングポイントが加算されるようになったこともあり、4年に1度の“祭典”を重要視するトップ選手も増えてきている(なお、16年リオデジャネイロ五輪からこの加算はなくなった)。

 錦織圭にとって、日の丸を胸にプレーする五輪は、グランドスラムとは違う、もう一つの大きな目標という位置付けだ。かねてより五輪出場を「小さいころからの夢」と公言し、その夢こそが「今も(五輪出場の)モチベーション」と、リオ前の会見で語っている。これまで3大会連続で夢舞台に立ち、2008年北京は初戦敗退、12年ロンドンではベスト8。そして、昨夏のリオでは3位となり、日本勢96年ぶりのメダルを獲得したことは記憶に新しい。

 心境の変化が訪れたのは、地球の裏側で激闘の6試合を戦い抜いた、まさにその時だ。ランキングポイントの加算がなくなり、プロテニスにおける五輪の価値を問う声も挙がった大会で、錦織は自分のためだけでなく、他者のため、そして“日本のため”に戦う喜びを感じたのだという。

「リオ五輪だけは気持ちが違いました。普段は自分のためだけに頑張っていて、その結果として他の人たちに喜んでもらえる可能性もあると思っていた。でも、リオ五輪では『自分のためだけではないのも、何か良いなぁ』という思いもあって。『日本のため』と言うとすごく大げさになるけれど、結果を出して喜んでもらえるなら、数人でもうれしいなと思えたんです」

「つらいことも当たり前だと思ってやっていた」

リオで日の丸を掲げる錦織。重圧から解放され、確かめるように喜びをかみしめた 【Getty Images】

「幼いころから米国で生活するようになっていたから、年を追うごとに日本に対する気持ちが強くなっているのではないか」。かつてそう指摘したのは、ロンドン五輪で日本代表監督を務めた村上武資だった。

 錦織は人生の半分以上を、遠く離れた海外で過ごしてきた。「盛田正明テニス・ファンド」の奨学生として、親元を離れて米国フロリダ州にあるテニスの名門「IMGアカデミー」に入学したのは13歳の時。結果を出さなければ帰国を余儀なくされる厳しい条件下でのテニス留学。当時の苦労は、錦織の脳裏にしっかりと焼きついている。

「僕の場合は米沢(徹)コーチがテニスを常に見てくれていました。米沢コーチがお尻をたたいてくれて、食事もすごく食べさせられて。あの時は嫌でしたけど、今思えばそのおかげで背がすごく伸びましたね。誰かが(背中を)押してくれるか、強い意欲がないとやっぱり難しいですよ。『強くなる』という気持ちがないと、耐えられない子も多いと思います」

13歳で渡米。「強くなりたい」という一心でひたすら練習に打ち込んだ 【坂本清】

 ひたすらにテニスボールを追いかけた当時を「大変だったけど、楽しんでいた」と振り返る。慣れないことばかりだった留学当初は、日本からやって来た仲間の存在も大きな支えになった。

「一緒に盛田ファンドで来た子がもう2人いたんですが、彼らがいなかったら僕も厳しかったかもしれないですね。(一人だったら)孤独になったり、頑張れなかったかもしれない」

 しかし、ハードな毎日を乗り越えられたのは、何より強くなりたいという向上心があったから。錦織はこう述懐する。

「僕はテニスを一日中できるのがうれしくて幸せだったので、つらいことも当たり前だと思ってやっていましたし、あまり弱音を吐いたりはしなかったと思います。『やらないとダメだ』と自分に言い聞かせていました」

 そうして異国の地でもまれ、鍛えられ、成長してきた。今では並み居る強豪たちと渡り合い、世界が認めるトッププレーヤーになった。

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