チッチ監督の手腕でセレソンに笑顔が戻る ネイマール依存症を克服し、最速でW杯へ

大野美夏

「頑固者」で不人気だったドゥンガ

チッチの監督就任後8連勝を飾ったブラジル代表。世界最速でW杯ロシア大会への出場を決めた 【Getty Images】

「ワールドカップ(W杯)ブラジル大会の悪夢」は拭い去ったのか?

 答えはSim!(イエス)。監督が代わったからだ。ブラジルに才能が不足しているわけではないし、ネイマールが頼りないわけでもない。W杯ロシア大会の南米予選、第6節までを終えて10カ国中6位に低迷していたセレソン(ブラジル代表の愛称)は“チーム”ではなかった。

 昨年6月にドゥンガがセレソンの監督をクビになったとき、どれほど多くの人が「やれやれ、やっとこの時が来てくれた」と安堵(あんど)したことか。

 ブラジルにおけるドゥンガのイメージは「闘将」というより「頑固者」で、とても不人気なのだ。選手として出場した1990年W杯イタリア大会のふがいない成績(決勝トーナメント1回戦で敗退)によって「ドゥンガ時代」とネガティブイメージを揶揄(やゆ)されることになった。94年W杯米国大会で24年ぶりにブラジルを優勝に導いたことは敬意を持って迎えられたものの、それまでのイメージが覆ったわけではなかった。

 そんなドゥンガが2006年のW杯ドイツ大会後、クラブでの監督経験なしにいきなりセレソンの監督に選ばれた。当初、CBF(ブラジルサッカー連盟)はブラジルナンバー1監督と呼び声の高かったムリシー・ラマーリョを迎えたかったが断られてしまった。スピリットとリーダーシップを高く評価してドゥンガを選出したのだが、彼のストラテジーは、戦術ではなくスピリットだった。

 就任時のあいさつで、「選手時代と同じ意欲で取り組む。感動、モチベーション、勝利への強い意志を持っていなければ、(ブラジル代表の)カナリア色のユニホームを着る資格はない」と言っていた。就任中に07年のコパ・アメリカと13年コンフェデレーションズカップで優勝したが、選手選考に疑問を持たれる、攻撃性の不足など、不人気ぶりは変わらなかった。メディアとの関係もずっと悪く、イライラした空気が漂い、国民との距離感は決して近くなかった。

ドゥンガの解任に国民は安堵

とにかく不人気だったドゥンガ。解任が決まると、国民は安堵した 【写真:USA TODAY Sports/アフロ】

 10年のW杯南アフリカ大会では準々決勝で敗退。ブラジルが圧倒的に強かった時代は、高い技術を駆使し、強い精神力を持ってすれば大抵の相手には勝てた。しかし、周囲の国々がレベルアップする中、決してブラジルの技術力が劣ってきたわけではないが、同じことをしていては勝てなくなった。

 ドゥンガはW杯南アフリカ大会後にセレソンの監督を退くと、古巣であるインテルナシオナルの監督に就任したが、シーズン半ばにしてわずか10カ月で解任を申し渡された。要するに、クラブレベルでの実績はセレソンの監督になる前も後もゼロということだ。

 14年W杯ブラジル大会での惨敗後、CBFがセレソンを立て直すという重要な任務を再びドゥンガに委任した時には、驚きだけでなく絶望的なムードになった。なぜなら、世論はコリンチャンスでブラジル全国リーグ、リベルタドーレス杯、クラブW杯というクラブレベルで最高峰のタイトルを取っており、実績と人気を兼ね備えたチッチ監督こそが監督にふさわしいと言われていたからだ。

 ドゥンガに対する期待は、世論もメディアもこれっぽっちも持っていなかったし、対するドゥンガにも国民やメディアに寄り添おうという気が感じられなかった。そして、多くの人が予想した悪夢は瞬く間に現実となった。W杯ロシア大会の南米予選での不調だ。それでも、CBFはドゥンガを守り続けたのだが、16年コパ・アメリカ・センテナリオでのグループリーグ敗退という黒歴史を刻んだ時点でついにジ・エンド。そして、国民の「やれやれ」となったわけだ。

チッチ就任後に8連勝、世界最速でW杯へ

実績と人気を兼ね備えたチッチの監督就任で、流れが大きく変わった 【写真:アフロ】

 そこに登場したのが、本命のチッチだ。南米予選で6位という順位に甘んじていたセレソンを、1年も経たないうちに8連勝で世界最速でのW杯出場へと導いてしまった。確かにチッチは素晴らしい監督だが、監督が代わるだけでここまでのマジックが起きるとは……。
 
 チッチはドゥンガ時代の守備陣を大きく変えたりはしなかった。例えば、コパ・アメリカ・センテナリオでペルーに負けた時(0−1)のダニエウ・アウベス、ミランダ、ジウ、フィリッペ・ルイスというDF陣は、チッチの初陣となった16年9月のエクアドル及びコロンビア戦でも招集した。選手は素晴らしい才能と技術を持っていると、信頼を寄せたのだ。

 チッチのシステムは4−1−4−1をベースに4−2−3−1になったりもする。コリンチャンス時代からチッチが目指しているサッカーは、コンパクトで攻守の切り替えが早い。スピードを武器に、堅い守備を構築して攻撃陣には自由を与える。重要なのはボランチで、中盤で相手にプレッシャーをかてけボールを奪い、一気に攻撃に結びつける。チッチになってからセレソンに復帰したパウリーニョと、新たに加わったカゼミーロがキープレーヤーだ。

チッチのシステムで重要な役割を担うボランチのパウリーニョ(右) 【Getty Images】

 パウリーニョはコリンチャンス時代にチッチと確たる信頼関係を築いた。ブラジルが誇る“攻撃的ボランチ”の代表格だ。「どこでもいいから試合に出られるところに行きたかった」と15年にトッテナムから広州恒大(中国)に移籍した時には、もうセレソンには呼んでもらえないだろうと思っていたのだが、ACL(AFCチャンピオンズリーグ)を制し、再びセレソンに戻ってきた。パウリーニョは守りはもちろんのこと、攻撃に厚みを加えることができる。3月23日に行われたウルグアイ戦(4−1)では、ボランチでありながらハットトリックを達成した。レアル・マドリーのカゼミーロはよりディフェンシブで、相手にボールを触らせない。中盤を支配し、攻撃陣にパスをしてチャンスを作る起点となる。

 南米予選でドゥンガのチームは6試合で11得点8失点だったのが、チッチになってからの8試合では24得点で失点がわずかに2点。脅威の得点力と失点率だ。

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著者プロフィール

ブラジル・サンパウロ在住。サッカー専門誌やスポーツ総合誌などで執筆、翻訳に携わり、スポーツ新聞の通信員も務める。ブラジルのサッカー情報を日本に届けるべく、精力的に取材活動を行っている。特に最近は選手育成に注目している。忘れられない思い出は、2002年W杯でのブラジル優勝の瞬間と1999年リベルタドーレス杯決勝戦、ゴール横でパルメイラスの優勝の瞬間に立ち会ったこと。著書に「彼らのルーツ、 ブラジル・アルゼンチンのサッカー選手の少年時代」(実業之日本社/藤坂ガルシア千鶴氏との共著)がある。

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