2006年 オシムがJに遺したもの<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

「『オシム』って言っちゃった」事件の余波

「『オシム』って言っちゃった」事件から約1カ月後の2006年7月、オシムは日本代表の監督に就任した 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

「そういえば、やり直したいことが、ひとつだけあったな……。『オシム』って言っちゃった、あの時だよ」

 これまでの仕事の中で、もしやり直せることがあったならば、それはどんな瞬間ですか──そんな質問を川淵三郎にぶつけたことがある。今から10年前、彼がJFA(日本サッカー協会)の会長だった時のことだ。インタビュー中は「これまでの決断で後悔していることはひとつもない」と答えていた川淵だったが、インタビューを終えて撤収作業をしていたときに、ふと上記の言葉を思い出したように漏らした。当時、ジェフユナイテッド千葉の監督だったイビチャ・オシムの名を、次期日本代表監督として「口を滑らせた」事件。それは、2006年6月24日、成田空港近くのホテルの会見場で起こった。

 この年、ドイツで開催されたワールドカップ(W杯)において、ジーコ率いる日本代表はグループリーグ1分け2敗の最下位で大会を去ることとなった。「ベスト8進出は堅い」と信じていた日本のファンは大いに落胆した。当時、カリスマ的な人気を誇った中田英寿も、グループリーグ3戦目のブラジル戦での大敗(1−4)の後に現役引退を表明。この時期、日本サッカー界は一時的に、絶望的な空気がまん延していた。そんな中、ドイツから帰国した川淵と技術委員長(当時)の田嶋幸三が帰国会見に臨んだ際、「事件」は起こった。そして取材陣が騒然とする中、川淵と田嶋はいったん席を外して、ある人物に電話をしている。

「田嶋さんから、いきなり私の携帯に電話があったんです。『何かあったんですか?』と言ったら、『川淵さんがウバさんと話したいそうです。いいですか?』と。それから川淵さんが電話を替わって『ごめんごめん、言っちゃったよ』みたいな感じで(苦笑)」

 千葉のGMだった祖母井(うばがい)秀隆は、当時の模様をこのように振り返る。ちょうどこの時、トップチームは岐阜で合宿を行っていた。オシムの通訳だった間瀬秀一(現愛媛FC監督)もまた、この時のことをよく覚えている。

「まず思い出すのが、ものすごい数の報道陣が押し掛けてきたことです。でも(会見の)次の日だったかな、オシムさんは『俺はもう(このクラブで)指揮を執らない』と言い出したんですよ。アマル(・オシム=イビチャの長男で当時千葉のコーチ)が指導することになって、オシムさんは練習場の崖の上から見下ろすように、その様子を見守っていましたね」

ジェリェズニチャル、そして旧ユーゴ代表の監督として

「Jリーグ25周年」を、当事者たちの証言に基づきながら振り返る当連載。第2回の今回は、06年(平成18年)をピックアップする。この年の特筆すべき出来事は、前年にクラブ初のタイトル(ナビスコカップ/現ルヴァンカップ)を千葉にもたらしたイビチャ・オシムが7月、日本代表監督に就任したことである。多くの代表ファンからすれば、これは歓迎すべき人事に映ったことだろう。

 しかしJリーグのファン、とりわけ当事者である千葉のサポーターにしてみれば、クラブにタイトルをもたらした名将を、契約半ばで「奪われる」ことを意味した(その結果、Jリーグのサポーターを中心に抗議デモも起こっている)。そうした理不尽がまかり通っていたのが、06年という時代であった。

日本代表でオシムの専属通訳を務めた千田善。その存在を認識したのは86年にオシムがユーゴスラビア代表監督になった時だという 【宇都宮徹壱】

 今でこそ日本サッカー界でも「名将」と認識されているオシムだが、現役時代に東京五輪(1964年)に出場したことはもちろん、指導者に転じてから日本にやってくるまでのキャリアについては、一部のマニアを除いてほとんど知られていなかった。のちに日本代表監督となったオシムの専属通訳となる千田善は、旧ユーゴスラビアの首都ベオグラードに留学中、オシムが率いるジェリェズニチャル・サラエボのゲームを何度か観戦している。

「僕は83年に向こうに行ったんですが、ジェリェズニチャルがベオグラードの2つのクラブ(レッドスターとパルチザン)と対戦するのがいつも楽しみでした。必ず勝つわけではないけれど、内容は常にスペクタクルで面白い試合をやっていました。そこの監督、つまりオシムさんが86年にはユーゴ代表監督になった。当時のユーゴは、パルチザンとレッドスター、そしてクロアチアのディナモ・ザグレブとハイドゥク・スプリットが『ビッグ4』と呼ばれていて、それ以外のクラブの監督が代表を率いるのは非常に珍しかった。その時からですね、オシムさんの存在を認識するようになったのは」

90年W杯イタリア大会で指揮を執るオシム(中央奥)。「ビッグ4」以外のクラブの監督が代表を率いるのは非常に珍しかった 【写真:アフロ】

 旧ユーゴ代表監督時代のオシムと交流した数少ない日本人が、当時大阪体育大学で指導していた祖母井である。ケルン体育大学で同窓だったズデンコ・ベルデニックに誘われて、90年W杯イタリア大会の直前合宿を視察した時のことだった。

「学生を連れて、スロベニアにいたズデンコさんに会いに行ったら、ユーゴ代表がクロアチアで合宿をしているから見に行かないかと。そこで初めてオシムさんとお会いしました。練習試合を見せていただいたり、宿舎に泊めていただいて選手の皆さんと写真を撮ったりしました。当時、ユーゴ代表のことはほとんど知らなかったけれど、今思えばピクシー(ドラガン・ストイコビッチ)とか、(デヤン・)サビチェビッチがいたんですよね(笑)。オシムさんは、見た目は少し怖かったけれど、私や学生の質問には親切に答えてくれました。ズデンコさんが、あれだけオシムさんをリスペクトしている理由もよく理解できました」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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