「コンパクトで本物の自信作だった」 イビチャ・オシムが語る当時の日本代表

宇都宮徹壱

オシム氏とアシマ夫人。夫人と結婚する直前に開催された東京五輪の思い出は、今でも氏にとって大切な宝物だ 【宇都宮徹壱】

 元サッカー日本代表監督であるイビチャ・オシム氏にとっての日本とのファーストコンタクトが、ユーゴスラビア代表として出場した1964年の東京五輪だというのはよく知られている。氏は瞳を輝かせながら、当時の思い出を饒舌に語る。

「東京に行った時には、いろんなお土産を買ったな。(当時、婚約中だった)妻には日本人形と着物を買った。今でも彼女は時々、それを家の中で着ているんだ(笑)。オリンピック村には、さまざまなスポンサー企業が店を出していて、そこでトランジスタラジオや真珠も買ったよ。(当時のユーゴでは)見られないものばかりが、そこにはあった」

 その後、91年にパルチザン・ベオグラードの監督として、2002年のワールドカップ(W杯)にFIFA(国際サッカー連盟)の技術委員会スタッフとして来日。そのたびに日本サッカーの発展を目にしてきたオシム氏が、数々の魅力的なオファーを断って03年にジェフユナイテッド市原(現千葉)の監督に就任したのは(少なくとも当人にとっては)極めて自然の成り行きであった。そしてまた、千葉での実績を認められ(そのプロセスには明らかに問題があったものの)日本代表の新監督に就任したのもまた、W杯ドイツ大会での惨敗に打ちひしがれていたサッカーファンにはうれしいニュースであった。

 それだけに、オシム氏が志半ばで病に倒れたのは極めて残念であり、「もしもオシム監督率いる日本代表が南アフリカで戦っていたら」という想いを今も密かに抱えている人は決して少なくないのではないか(かくいう私もそのひとりだが、だからといって後任の岡田武史氏が果たしたベスト16という結果を否定するつもりは毛頭ない)。今回のインタビューでは、まずこのテーマについて当人に語っていただくことにした。

「日本でさらに仕事をするつもりでいた」

06年に日本代表監督に就任したオシム氏。「日本サッカーを日本化する」というテーゼは当時極めて新鮮だった 【宇都宮徹壱】

――オシムさんが日本代表監督だった頃の話を伺いたいと思います。就任当時、オシムさんは「日本サッカーを日本化する」というテーゼを掲げていました。言わんとするところは「日本人はブラジル人やドイツ人のまねなどしなくてよい。君たちには君たちの良さがあるのだから、その長所をしっかり伸ばして世界を目指そう」というものだったと記憶しています。当時、取材していた私たちも、非常に新鮮に感じられました。

 なぜ新鮮に感じられたのか分からないが、それは明白なことだ。君たちは米国人のバスケットボール選手のように背が高くなることができないだろう。彼らに追いつくためには少なくとも身長が必要だ。だが、体格だけが強みになるのではない。その国にはその国の持ち味というものがあるし、テクニックや賢さ、サッカーの理解度や守備力といったものも必要だ。ずっと攻撃し続けるわけにもいかないわけだし。私が指揮したアジアカップ(07年)では、中澤(佑二)を呼び戻し、(田中マルクス)闘莉王、坪井(慶介)、阿部(勇樹)といった選手たちで守備の強化を図った。しかしわれわれは(準決勝でサウジアラビアに敗れて)優勝することはできなかった。

――日本が世界を目指す上で、最も足りていないところはどこだと思いますか?

 何もない。(優秀な)監督もいるし、お金もあるし、スタジアムも良いリーグもそろっている。(あえて言えば)自分の道を探すこと。それは私が何度も繰り返し言ってきたことだ。君たち(日本人)は自分自身をアメリカナイズしてきた。君たちはスターマニア、言わばみんながスターということだ。みんながテレビで取り上げられ、選手たちはそこで現実を見失う。すべてが実現可能だと思い始めてしまう。だが、それは不可能なことだ。そして期待通りの結果が出せなくなると、みんなで大いに失望する。それは良くないことだし、後退につながることになるだろう。

――私が日本代表監督時代について質問させていただいたのは、オシムさんが病で倒れることなく10年のW杯で指揮を執っていたなら、どんなチームになっていたのだろうか、ということを今でも考えるからなんです。

 私は(病で倒れなければ)日本に残って、さらに仕事をするつもりでいたよ。もっと若い選手を起用して、何かを残せるようにね。(当時の)代表は若返りをしながら、より経験のあるチームへ向かう道半ばにあった。経験のある選手も使っていたが、多くの若い選手たちも登場していた。それは私にとって、間違いなく興味深い現象だった。

 だからより優れた、若い日本代表を作っていたと思う。W杯予選の重圧に耐え、厳しい試合を戦うことができ、その中で経験を積み重ね、(実際に南アフリカ大会を戦ったチームとは)もう少し違った戦い方をしていたかもしれない。私は常にチームを若返らせ、よりアグレッシブに、より速くプレーができるチーム作りを課題としていた。よくサッカーを知る選手たちとともにね。ただ、その途中で病に倒れるとは思っていなかった。

「私は成功を収めたいと思っていた」

07年アジアカップでのオシム氏。当時の采配について「私は間違っていたのかもしれない」と振り返る 【宇都宮徹壱】

――07年秋のオーストリア遠征では、翌年のユーロ(欧州選手権)の開催国だったオーストリア(0−0、PK3−4)とスイス(4−3)相手に勝ち越し、国内最後の試合となるエジプト戦(4−1)にも勝利しました。ご自身ではあの時点で、チームの完成度をどれくらいだったと認識されていたのでしょうか?

 私は(日本代表監督としての)仕事をまっとうできなかった。だが、もし1から5までで評価するのであれば「1.5」を付けるかな。それ以上はいらないだろう。もしかしたら私は、当時の日本が持っていた選手の質や経済面といった可能性を利用していたのかもしれない。欧州で頻繁にプレーする若い選手を擁し、サッカーに必要な条件が整っていて、財政的にも恵まれている国というのは、それほど多くはない。

 だからこそ、私は成功を収めたいと思っていたし、実際にクオリティーの高い試合もいくつかあった。そこで忘れてはならないのは、少しばかり実験をしていたということだ。残念ながら、アジアでチャンピオンになることはできなかった。あの大会(07年のアジアカップ)での日本は、最初から最後まで同じメンバーで戦った、数少ないチームだった。そうした決断をしたのは、彼らがベストのプレーをしていたからだ。もしかしたら、私は間違っていたのかもしれない。だが、間違うことは恥ずべきことではないとも思う。

――その後の欧州遠征でスイスに勝利したときには、次のW杯に思いを馳せたものです。実際、どれだけ伸びるという確信があったのでしょうか?

 どうだろうか。ひとつだけ言えるのは「確実に成長していただろう」ということだ。(当時の日本代表は)よく調整された、コンパクトで本物の自信作だった。先ほど5段階で「1.5」という話をしたが、おそらく(本大会では)「3.0」は行っていただろう。わが国には「穏やかな水が丘を崩す」ということわざがある。われわれは穏やかな水のようにアプローチしていった。他のチームから尊敬を受けつつ、自分たちのプレーをするという意味でね。

 君の言うように、スイス戦での勝利は最も美しく、うれしい勝利だった。相手に2点先制されたが、最後にはわれわれが勝利したからね。(自分が指揮する日本代表は)それほど急激な飛躍は望めなかったかもしれない。それでもジェフが成し遂げたように、ゆっくりと確実に、一歩ずつ進歩が感じられるように歩みを進めていたと思う。それは(それまでの仕事において)多くの人々が認めてくれるだろう。私自身も、それこそがベストの道であり、それ以外の道はないと今でも思っているよ。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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