佐野裕哉と相模原、それぞれの挑戦=J2・J3漫遊記 SC相模原<後篇>

宇都宮徹壱

佐野裕哉の稀有なキャリアについて

相模原のキャプテンにして10番を背負う佐野。15年のキャリアで6つのカテゴリーでプレーした 【宇都宮徹壱】

 J3第9節、SC相模原対JリーグU−22選抜の試合が相模原ギオンスタジアムで行われた4月29日の夜、衝撃的なニュースが飛び込んできた。相模原のキャプテンにして10番、佐野裕哉が交通事故に遭ったというのである。以下、翌30日にアップされたクラブの公式ブログからの引用。

「昨夜、佐野裕哉選手が相模原市内の路上で車に跳ねられる事故が発生し、佐野選手は頭部に裂傷を負い市内の病院に運ばれました。これまでの検査では外傷以外に特に異常は見当たりませんが、念のため本日も入院して様子をみることとなりました。(後略)」

 ショックだった。もちろん、当人の状態やチームに与える影響についても心配であったが、自分がその日カメラに収めた人物がわずか数時間後に交通事故に遭ってしまったこと、そして事故が原因で佐野への取材がNGとなる可能性もあることもまた、現実的な問題として重くのしかかってきた。幸い、5月1日に無事に退院。5月17日のノジマフットボールパークでの練習終了後、じっくり話を聞くことができた。最初に事故のことを尋ねると「いやあ、何も覚えていないですね」と実にそっけない。抜糸の跡が少し痛々しいが、それでも当人の元気そうな言葉を聞くことができたのは何より有難かった。

 佐野は1982年4月22日生まれの32歳。静岡の出身で、東海大一中(高原直泰の後輩)、清水商業高校(望月重良の後輩)では大いに将来を嘱望されていた。98年にはU−16日本代表として、アジアユース選手権にも出場。そして2年後の2000年、念願かなって東京ヴェルディに入団する。しかし、選手権でのけがが完治しない状態でのプロ入りは、当人にとってもクラブにとっても残念な結果しかもたらさなかった。3シーズンでのJ1出場機会はわずか9試合。東京Vとの契約が切れた佐野は、J2の湘南ベルマーレに移籍して出場機会を得るが、こちらも2シーズンで退団を余儀なくされる。

 当人の言葉によれば、東京V時代は「レベルの高い選手が多くて、自分もてんぐになっていた」、湘南時代は「自分はJ1から来たんだという勘違いがあった。そういう選手が活躍できるほど(J2は)甘くない」。ただし当人の名誉のために補足すると、「てんぐ」や「勘違い」をしてしまう天才肌の若手選手は、この頃は掃いて捨てるほどいた。

 佐野がそうした凡百の「天才肌」と異なっていたのは、その後のキャリアが実に起伏に富んでいたことであった。J1、J2、いきなり九州リーグ、JFL、再びJ2、さらに関東2部、関東1部、JFL、そしてJ3。15シーズンの間、これほど幅広いカテゴリーでプレーしてきたフットボーラーも、そうそういないだろう。そんな彼に、創立からわずか7年目でJクラブとなった相模原、そして今季からスタートしたJ3というカテゴリーについて、自身のキャリアと重ねながら語ってもらうことにした。

「長崎のサポーターを裏切ってしまった」

長崎時代の佐野。攻撃のかなめとしてチームを牽引したが、初めての地域決勝では涙を飲んだ 【宇都宮徹壱】

 湘南を退団した06年、新しい所属先が見つからず、母校・清商(現・清水桜が丘高)のグラウンドで練習していた佐野に思いがけないオファーが舞い込む。「長崎にJを目指すクラブがある。こっちでプレーしないか?」。声をかけてくれたのは、国見高校サッカー部の総監督だった小嶺忠敏である。小嶺はこの年、国見高を定年退職し、6月から株式会社化するV・ファーレン長崎の社長に就任することになっていた。そして九州リーグ2年目のこの年、是が非でもJFL昇格を果たすべく、その切り札として佐野に白羽の矢を立てた。当時、長崎には横浜フリューゲルスなどでプレーした原田武男が所属していたが、ほとんどの選手はアマチュア契約。それだけに、前年までJリーガーだった佐野にかかる期待は大きかった。

「長崎には単身赴任でしたが、特に不安はなかったですね。もう一度、下から這い上がって周りを見返したいという気持ちと、長崎をJまで上げたいという気持ちでプレーしていました。ただ最初のうちは、チームメートに強く要求することができなかった。昼間は働いて、疲れた状態で夜に練習しているのに『もっと走れ』なんて言えなかったんです。どうすれば、同じ立場に立って要求できるんだろうって考えた結果、自分も働くことにしました。それまではバイトもしたことがなかったんですけど(苦笑)」

 佐野を攻撃の中心に据えた長崎は、その年の九州リーグと全社(全国社会人サッカー選手権大会)で優勝。地域決勝1次ラウンドでも圧倒的な強さを見せつけ、大分での決勝ラウンドにまでたどり着いた。ここで優勝すれば無条件でJFL昇格、2位になればJFL最下位チームとの入れ替え戦に出場できる。長崎はFC岐阜と並んで優勝候補に挙げられていたが、優勝はTDKサッカー部(現ブラウブリッツ秋田)、2位岐阜、長崎は3位に終わった。

「実は地域決勝が始まる前から、自分の中では危機感があったんです。というのも、全社が終わってから10人くらい選手を外からレンタルしてきて、チームががらっと変わったんです。全社で優勝したメンバーからすれば、やっぱり面白くないですよ。僕もなんとかチームがひとつになるように努力したんですけど、結局チームは分裂したまま地域決勝に臨んでしまって、ああいう結果に終わってしまった。いい選手が集まれば、すぐにチームが強くなるわけではない。早く上に上がりたいフロントの気持ちも分かるけど、やっぱりチームは時間をかけて強くなるものだと思うんですよ」

 失意のシーズンが閉幕し、佐野は翌07年も長崎でプレーを続ける。しかしこの年は九州リーグ3位に終わり、全社も準決勝で敗退。長崎は地域決勝を戦うことさえかなわなかった。この年のオフ、佐野は長崎を離れて、JFLに昇格したニューウェーブ北九州(現ギラヴァンツ北九州)に移籍する。葛藤の末の決断。自分ひとりがカテゴリーを上げたことについては「長崎のサポーターを裏切ってしまった」と、今でも心残りがあるという。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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