野口みずき、栄光と挫折の競技生活を語る第二の人生へ「指導者は無理だな(笑)」
女子マラソン界をけん引し続けた野口みずき。競技生活を終えた現在の素直な思いを聞いた 【写真:長田洋平/アフロスポーツ】
野口にアテネ五輪後の苦悩や今の思い、そして引退後の青写真について聞いた(取材日:5月2日)。
ゴールしないまま終わるのは嫌だった
そうですね。でも去年あたりからリオデジャネイロ五輪へ向けてやっていて、代表になれたら五輪が最後かなと思っていたし、そうでなかったらどれかの代表選考会で十分かな、というふうに考えていました。
――最後まで戦い抜いて終わりたいという気持ちだったのですか?
最後まで戦いたかったし、五輪に向けて挑戦したいというのもあったのですが、やはり13年の世界選手権は途中棄権という中途半端な形で終わっていたので……。あの後で少しは引退も考えたりしたけど、ゴールしないまま終わるというのは私の中では嫌だったんです。だから絶対にどこかで、自分が戦ってきた42.195キロをゴールして終わりたいというのもありました。
42.195キロを走り切りたい――その一心で最後のマラソンを駆け抜けた 【写真:長田洋平/アフロスポーツ】
5キロ過ぎで集団から離れたけど、15キロを過ぎてもなぜかまだ諦めていなくて、「もしかして私だったら奇跡を起こせるかもしれない」と思っていました(笑)。でもさすがに30キロ手前くらいで折り返してきた集団とすれ違った時には「あぁ、ちょっとダメかもしれない」と思って諦めて。でもその直後からは沿道の応援やランナーの人たちがかけてくれる言葉を聞いて、何か普通に走ることの喜びを感じながら走っていたような気がします。
――終盤は花道を走っている感じだったと話していましたが、「これが最後かな」という思いもありましたか?
そうですね。「これは花道だな」と思いながらも、道路を見つめながら走っていて、「今この時が私の最後の道路なんだろうな」と、ずっと思っていました。
北京五輪を欠場「あの悔しさが一番」
あの東京は自信満々だったというより、五輪の金メダリストであり日本記録保持者だったので、すごいプレッシャーを感じていたんです。それにあの頃はいいライバルにも恵まれていて。渋井陽子選手(三井住友海上)や他の選手もすごく勢いがあって、誰が勝っても誰が記録を出してもおかしくない時期だったし、なおかつ追われているということや周りからの期待も感じていたので、アテネやベルリンの時よりもすごく緊張していました。
――五輪王者という重圧を一番感じたレースだったんですね。でもあの東京の終盤の強さは本当にすごかったです(編注:35キロ以降の上り坂を一気に駆け上がり、後続との差をみるみる引き離した)。
ありがとうございます。私もあの時は四谷までの坂を上りながら「どうだ!」みたいな感じでグイグイいってましたから(笑)。本当に後半の方が元気でしたね。
ライバルたちを次々と振り切り、大会新で優勝した07年の東京国際。翌年の北京五輪での活躍を期待させる快走だった 【写真:A.J.P.S./アフロ】
そうですね。ただその後の練習では必要以上に五輪のことを意識し過ぎたかなと思いました。2大会連続金メダルは女子ではなかったから、かなり意識して周りがちゃんと見えなくなっていたというか。
――ケガにつながった練習中の不注意とか。
そうですね。それに07年の東京は他のどのレースより良い準備ができて、練習も100パーセントできたので、逆に後で疲労が出てきてしまい、体的にも精神的にも良くない状態だったのではと思います。それが悪い形でかみ合ってしまってケガになって表れたのかなというのは、すごく感じました。
――北京五輪も結果を見れば、野口選手が出て普通に走れていれば勝てたのにという印象でしたが、悔しかったでしょうね。
周りの方からも結構そう言われたけど、私も振り返ってみると「チャンスだったのにな」と思います。それまでは順調にいっていたので、あの悔しさが一番ですね。それに(北京五輪では)土佐礼子さんの調子が悪くて中村友梨香さんだけに負担をかけてしまって……。テレビを見ながら「本当は自分が出て引っ張っていけていれば」など、いろんなことを思っていました。