2001年には計101本塁打をたたきこんだ、中村(写真左)とローズの3、4番。同一球団の2人で100本塁打を超えたのは、長いプロ野球の歴史上でもこのコンビだけだ(写真は共同)
1979年の「江夏の21球」、88年の「10.19」、そして2001年の最後のリーグ制覇にかかわる選手たちが、上位のほとんどを占めた。
先発は「トルネード投法」の野茂英雄が、63.19%の得票率で1位。ルーキーイヤーの90年に新人王、MVP、沢村賞を総なめにした。この3賞を同時受賞したのは、野茂だけである。2位は「草魂」「投げたらアカン」でおなじみの鈴木啓示。通算317勝、昭和の大エースだ。3位の岩隈久志は03、04年に2年連続で15勝を挙げた「近鉄最後のエース」。4位・阿波野秀幸は80年代終盤のエースで、「10.19」の2試合ともリリーフに立った。投げるときの顔が「怒ったヒヨコ」のようと、ごく一部で評判だった。
中継ぎ1位の盛田幸妃は98年に脳腫瘍の摘出手術を受けながら、不屈の精神で復活。01年は34試合に登板して優勝に貢献し、「カムバック賞」を受賞した。15年に45歳の若さで、惜しくもこの世を去った。96年、中継ぎとしてNPB初の1億円プレーヤーになった「ピッカリ投法」こと佐野慈紀が2位。3位の清川栄治は貴重な左のリリーフ。余談だが、清川は字がとてもキレイなことでも知られる。
抑えの1位は90年代を代表するクローザー・赤堀元之だ。96年、NPB史上最年少で100セーブを達成した。その赤堀の後継者が、2位の大塚晶文。98年に当時NPB新記録のシーズン35セーブを挙げた。3位の吉井理人は88年、10勝24セーブで最優秀救援投手に。赤堀の台頭で、後にヤクルトへ移籍することになる。
捕手は70年代末から80年代にかけて正捕手の座を争った「ありなしコンビ」の梨田昌孝がダントツの1位(得票率84.08%)、有田修三が3位(同3.20%)。梨田は同じプロ野球選手をして「なぜあれで打てるのか」と言わしめた「コンニャク打法」で、有田は鈴木とのバッテリーで有名だ。2位の的山哲也は平成の入団ながら、昭和の香りがプンプンする捕手だった。
一塁は90年代前半、不動の4番だった石井浩郎が1位。2位は01年に26本塁打を放った吉岡雄二。彼が6番に座っていたとは、いてまえ打線恐るべし。3位のデービスは野球の記録以上に、西武の東尾修との大乱闘と、大麻事件での逮捕、そして解雇で名を残してしまった。
二塁、三塁、遊撃は79年、88年、01年のメンバーが1人ずつ3位以内に入った。
79年は「6番・二塁」アーノルドと「7番・三塁」羽田耕一、「9番(1、2番も)・遊撃」石渡茂が、それぞれ3位。羽田は88年の10.19最後のバッターでもある。
88年からは盗塁王4回の切り込み隊長・大石大二郎が二塁、外野も守った村上隆行が遊撃の1位。三塁の2位・金村義明は88年終盤の左手骨折により、10.19はベンチの外から見ていたという。
01年はいてまえ打線不動の4番・中村紀洋が三塁の1位。2番で中村ら主軸につないだ水口栄二が二塁、遊撃ともに2位に入った。
外野は01年組から本塁打王・ローズが83.48%の得票率で1位に。88年組からは大砲・ブライアントが2位、アベレージヒッター・新井宏昌が3位になった。注目は5位の土井正博。62年に「18歳の4番打者」として話題を呼び、後に本塁打王1回、最多安打2回を獲得する名選手へと成長している。
DH2位のマニエルは79年、死球で骨折したアゴを、アメフト型のフェイスガード付きヘルメットで守りながら本塁打王に輝いた。後にMLBフィリーズの監督を務め、08年にはワールドシリーズ制覇に導いている。3位・オグリビーは元メジャーの本塁打王。87年の来日時は38歳でパワーは衰えていたが、2年連続の打率3割超はさすがだった。
(文:前田恵、企画構成:株式会社スリーライト)