中谷潤人に両目を折られ、完敗した高校国語教師 10年後の今も教壇とリングに立ち続ける理由
「よく二重に見えると言いますけど、2人じゃなかったです。“分身の術”みたいな感じでバババババと増えて。あ、どうしよう、壊れちゃったと思って。怖かったですよ」
こうして「恐怖との戦いだった」という1ラウンドが始まった。
さらなる衝撃が襲った1ラウンド
これが3カ月前に岐阜のローカル興行でプロデビューしたばかりの17歳に対する正直な印象だった、と元日本ランカーの小久保聡(こくぼ・あきら)さんは振り返る。
東京・練馬の三迫ジムに所属していた当時31歳。非常勤の国語教師として埼玉の私立高校で教鞭をとっていた。試合前日の計量で顔を合わせた生徒たちと同世代の若者は「お願いします!」と屈託のない笑顔で挨拶してくれたという。
「すごく礼儀正しかったです。こっちとしては試合前だし、そんなニコニコとしゃべりかけないでほしいな、と思ってましたけど(笑)」
この時点で戦績は1勝5敗3分。勝利から2年以上、遠ざかっていた。「絶対に負けたくない」。そんな思いを募らせていた。
2月24日、東京・有明アリーナに28戦全勝18KOのダビド・クエジャル(メキシコ)を挑戦者に迎え、30戦目(29戦全勝22KO)のリングに上がる中谷の身長は173センチ。バンタム級では長身として知られる。
今や世界3階級を制し、世界的な評価も高まるWBC世界バンタム級王者もデビュー戦の階級は最軽量のミニマム級。リミット47.6キロの400グラムアンダーで戦っていた。実際、まだ身長170センチに届かない成長途上の体は線が細い印象だった。
同じサウスポーの小久保さんは158センチと小柄だが、その分、体は分厚い。
「プレッシャーをかけていけば、自分のボクシングに巻き込めるかな、と思ったんですけど」
だが、さらなる衝撃が襲う。テンポよく攻め込んでくる中谷に対し、ガードを固めて下を向いたところに右アッパーを食らい、今度は左目の視界までブレてしまった。
印象的だったのが今の中谷に通じる「パンチの種類の多さ」。その上、ストレート、アッパー、フックとアングルを変えて打ち込んでくるパンチの一発一発が硬く、急所をピンポイントで狙ってくる精度の高さに脅威を感じた。
が、極限状態で人は妙に冷静になることがある。
「その日は金曜日で、土日を挟んで月曜日に学校の夏期講習があったんですよ。仕事に行かないといけないって、ふと頭をよぎったのを覚えてます」
「なんでこんなことやってるんだろう……」
プロボクサーとしてのキャリア8年、特に中谷戦を含む前半の勝てなかった4年を思い返し、小久保さんは表情をゆがめた。
「どこかにまだ悔しさが残っていて、まだ強くなれるんじゃないか、と思っている自分がどこかにいる。だから、ここにいるんだと思います」
ここというのは往年の元WBC世界フライ級王者、小熊正二(おぐま・しょうじ)会長が埼玉・川越で主宰する小熊ボクシングジム。教員の仕事終わりに地元のジムで週3回から4回ほど、今でも練習を続け、ときにはプロ選手のミットも持つ。
以前、日本ランカーになった頃、「負けたら何もないことをボクシングで知った」と話していた。そう伝えると「そんなこと言ってましたか」と一息ついて、「苦しかったですからね」と苦笑まじりに続けた。
「減量もある。ケガもする。別にお金になるわけでもないし、勝てない。なんでこんなことやってるんだろう、やめればいいのにって、何度も思いながら」
それでは、なぜ始めたのか。東日本大震災が転機になった。大学時代のアルバイト先だった書店に勤めていた27歳。「いろいろ考えさせられて」。人生を見つめ直した。
書店員の仕事と並行して個別指導の塾講師としても働き、「それぞれ合格という目標を目指して、頑張っている子を応援できること」にやりがいを感じていた頃だった。
一方で、在籍していた社会人のサッカーチームがなくなり、個人でできるスポーツをしたいと都心のボクシングジムに入会。ほどなく、より遅くまで開いている三迫ジムに移り、毎日のように練習に打ち込むほど、のめり込んでいた。
「自分が本当にやりたいことをやるべき」。震災の翌年2012年、大学時代に一度は断念していた教員免許、ジムからも背中を押されて受験したプロボクサーライセンスの両方を取得した。
2012年8月6日、高校の夏休み期間を利用したデビュー戦は、初回に2度倒された末に判定負け。この1試合限りのつもりが「悔しくて」。やめられなくなった。その直後に出会いがあった。
世界2階級を制覇した現・WBC世界フライ級王者の寺地拳四朗(BMB)とのコンビで知られる加藤健太トレーナーがジムに加わった。若くして眼疾で現役引退。トレーナー未経験だった2歳下の26歳と組んだことがターニングポイントになる。
加藤健太トレーナーの熱量に応えたい
新コンビで臨んだ2戦目で初勝利。次の3戦目は接戦を落とした。その2戦ともアウトボクシング、カウンター狙いの待ちのスタイルだった。
2人が目指していたのは正反対のファイタースタイル。もとより小柄でリーチのない小久保さんが生き残るには、それ以外になかった。が、勢い込んで前に攻めたところを立て続けに転がされたデビュー戦がトラウマになっていた。
加藤トレーナーと1から取り組み直してきたことが、リングで表現できたのは4戦目。のちにWBO世界フライ級王者となる木村翔(青木=当時)が相手だった。
手数の豊富な生粋のファイターと呼応するようにフルラウンド、パンチを交換。1-2の判定で敗れはしたものの、「楽しかったし、向いてるな」と再確認できた。
それ以降も勝ち切れない試合は続いた。2014年に参戦した新人王トーナメント戦では不戦勝、2連続引き分け勝者扱いと未勝利で東日本新人王決勝進出の珍記録も残した。その準決勝で木村と再戦。再び真っ向から打ち合った末の引き分けだった。
相手の追い込み方、ブロッキングの仕方、接近戦でのコンビネーションのパターン、さらに対戦相手を研究し、対策を練る。熱の入った指導に懸命についていき、少しずつ自分の戦い方を築き上げていった。
迎えた中谷戦。何とか1ラウンド終了ゴングにたどり着いたが、想像を超える強さとケガに戸惑う小久保さんに覚悟を決めさせたのも、加藤トレーナーの激励だった。
「強いけど、やるしかないよ。前に出て、手を出し続けよう」
信頼を寄せるトレーナーのシンプルで真っ直ぐな言葉が心に響いた。結局、コーナーでは両目の痛みも、異常な視界のことも伝えないままだった。
「もう、明日のことは何も考えず、絶対に捕まえてやろうと」
2ラウンド以降、ひたすら前に出続けた。無数にブレて見える相手の足もとを見て、「その上に顔があるはず」とパンチを一心に繰り出し続けた。