【新旧女王対談:前編】ドラマ出演も話題になった現役世界王者・晝⽥瑞希 アメリカ・デビューに向け、レジェンド・ 藤岡奈穂⼦さんと“再会”

船橋真二郎

WBO女子世界スーパーフライ級王者の晝田瑞希(左)と元女子世界5階級制覇王者の藤岡奈穂子さん 【写真:伊藤キコ】

 TBS系ドラマ『あのクズを殴ってやりたいんだ』にボクサー役としてドラマ初出演もしたWBO女子世界スーパーフライ級王者、晝田瑞希(三迫)の念願だったアメリカ・デビューが決まった。2025年1月17日(日本時間18日)、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊コマース市のコマースカジノ・イベントセンターで開催される360プロモーションの興行に記念すべきリングはセットされている。

 11月にWBOから指名試合のオーダーが出され、当初は同級1位の指名挑戦者との対戦に向け、準備が進められていたが、相手のビザが間に合わないため、この1月の段階での指名試合はなくなった。代わりの選手を立て、WBOから防衛戦として承認されるか、ノンタイトル戦になるか、プロモーターのトム・ロフラー氏が奔走し、取材時点では100%確定には至っていなかった。

 晝田は12月8日、4度目となる約1ヵ月のロサンゼルス合宿から予定通りに帰国したが、ロフラー氏の尽力を信じ、ロサンゼルスの師であるマニー・ロブレス・トレーナーのもとで最終調整に入るため、12月25日に再渡米。翌26日(日本時間27日)、1日遅れのクリスマスプレゼントのように晝田のアメリカ・デビュー戦が3度目の防衛戦となることが、360プロモーションから正式に発表された。挑戦者は元WBA同級王者のベテラン、38歳のマリベル・ラミレス(メキシコ)。奇しくも藤岡奈穂子さんと2013年3月に日本で対戦し、4回TKO負けしている。

 そのアメリカで日本人女子選手として初の世界戦勝利をあげたのが、藤岡さんだった。2021年7月9日、WBA女子世界フライ級王者としてロサンゼルスでスレム・ウルビナ(メキシコ)に判定勝ちで2度目の防衛を飾った。さらに翌年4月9日、テキサス州サンアントニオでWBC女子世界フライ級王者マーレン・エスパーザ(アメリカ)との2団体王座統一戦に臨んだが、0-3の判定負けを喫した。

 そのエスパーザ戦を最後に2023年5月29日、所属の竹原慎二&畑山隆則ジムで会見を開き、正式に現役引退を表明。その席上「これからの日本女子ボクシングを引っ張ってくれる存在」として、アメリカへの道を継ぐ者として、藤岡さんが真っ先に挙げた名前が晝田だった。

 JBC(日本ボクシングコミッション)が女子を公認した翌年2009年9月、34歳でプロデビュー。47歳まで闘い続け、日本人史上初の世界5階級制覇、歴代最多6度の女子年間MVP、同5度の女子年間最高試合賞など、偉大な功績と足跡を残した女子ボクシングのレジェンドと、新たな歴史を創ろうとしているピンクの髪がトレードマークの新世代のサウスポーに語り合ってもらった。(12月13日取材/三迫ジム)

「悔しかった」と晝田が振り返る最初の出会い

6年以上前の藤岡さんとの初めての出会いを「忘れられない」と語る晝田 【写真:伊藤キコ】

――藤岡さんの引退会見の後、晝田選手のことをうかがったときの話で、いつか自衛隊体育学校からサウスポーの選手が3人、スパーリングに来て、もしかしたら、あの中のひとりが晝田選手だったのかもしれないと。

藤岡 ああ、ありましたね。うちのジムに来てくれて。

――その数日後だったか、晝田選手に訊いたら、そうだったんですよね。

晝田 そうなんですよ。3人で一緒に行ったんですけど。

藤岡 やっぱり、そうだったんだ。誰が誰だか全然、分からなかったんだけど。まだ(髪色が)ピンクじゃなかったし(笑)。

晝田 まだ黒髪ですね(笑)。でも、私はよく覚えてて。

藤岡 3人で来て、しかも全員サウスポーだったから、それは覚えてるんだけど(笑)。

晝田 でも、全員とやりましたよね?

藤岡 全員とやった。だって、3人で来たのに1人だけってわけにいかないでしょ?

晝田 その話をしたかったんです(笑)。私は事前の情報で、世界チャンピオンということとか、年齢とか、大まかな情報しかなくて、で、出稽古ってなったら。私、今でもそうなんですけど、緊張しいなので、緊張しながら行って。でも年齢を考えたら……。

藤岡 え? いくつだった? もう6年ぐらい前じゃない?

晝田 もう少し前かもしれない……。うん。もう少し前だ。私がまだ(アマチュアの全日本選手権で)チャンピオンになってない時期だから。

藤岡 6年以上前なら40代前半か。

晝田 私からしたら、それが結構ビックリで。そういう選手はアマチュアにはいないし、自分より親のほうが近い年齢ってなったら、え? それで世界チャンピオン!? ちょっとよく分かんないって、頭では理解できないというか(笑)。

藤岡 まあね、そうだよね(笑)。

晝田 で、こっちも、私以外の2人は当時からトップアマチュアって言われてたし、私も一応、初めて全日本の決勝に残ったときだったと思うんですね。

藤岡 あとの2人は誰と誰だったの?

晝田 小村(つばさ)という子と、あと並木(月海)です。

※小村は全日本選手権ライトフライ級3連覇、並木は東京五輪フライ級・銅メダルなどの実績を残した。

藤岡 あ、並木。やっぱり、そうだったんだ。

晝田 そのレベルの、速いアマチュアボクサーを全員、相手にしたんですよ!(笑)

藤岡 いやー、頑張ったなー(笑)。

晝田 しかも淡々とこなされてしまって(笑)。それが悔しかったのを覚えてます。私はアマチュアのとき、プロの選手とやらせてもらっても、もちろんボコボコにしたとかじゃなくて、「ああ、よかったー」って、思えるぐらいの内容のスパーはしてたんですよ。でも、すごいやりにくかった印象があって……。藤岡さんって、なんか不思議なんですよね。めちゃくちゃスピードが速いとかじゃなくて。

藤岡 そう、そう。そんなに速くない。

晝田 そうですよね。そういうキレとかじゃなくて、なんか沼に引きずり込まれるような感じを味わって。「なんだろう? この感覚は」って、悔しかったのを覚えてます。

藤岡 自分はもうイキのいい、若いサウスポーが3人来たから、頑張ろうとしか思ってなかったけど(笑)。

――藤岡さんの印象としては、あのときの3人の中にいたんじゃないか、ぐらいの。

藤岡 はい。あの時期の自衛隊だったら、そうだろうな、みたいな感じで。

晝田 いちいち覚えてられないですよね。すごい数やってるだろうし。

藤岡 いや、でも当時のアマチュアって、我々がやってた時代のアマチュアのレベルとは全然、違いますからね。こりゃ油断できないな、と思ってましたよ。

――晝田選手としては、そのときから気になる存在ではあった?

晝田 いや、忘れられないですよね。こっちからしたら(笑)。ほかにはいないような存在だったし。

藤岡 ありがとうございます!(笑)

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著者プロフィール

1973年生まれ。東京都出身。『ボクシング・ビート』(フィットネススポーツ)、『ボクシング・マガジン』(ベースボールマガジン社=2022年7月休刊)など、ボクシングを取材し、執筆。文藝春秋Number第13回スポーツノンフィクション新人賞最終候補(2005年)。東日本ボクシング協会が選出する月間賞の選考委員も務める。

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