シダマツペア独占インタビュー バドミントン銅メダリストが明かす「連携」の秘密

大島和人

帰国を前に「シダマツペア」が揃って取材に応じてくれた 【撮影:大島和人】

 TEAM JAPANの中でも、スポーツファンに「爽快感」が伝わった2人ではないだろうか。志田千陽、松山奈未(共に再春館製薬所)の「シダマツペア」はバドミントン女子ダブルスで銅メダルを獲得し、日本の同種目では史上3組目のメダリストとなった。

 世界ランキング4位でパリオリンピックに挑んだシダマツペアは準決勝こそ敗れたものの、マレーシアペアとの3位決定戦をスピード感のある試合運びで2-0(21-11、21-11)と制している。今回はメダルセレモニーを終え、帰国を直前に控えた2人が、スポーツナビの独占インタビューに応じてくれた。(取材日:8月7日)

「神みたいな人」と記念撮影

――銅メダルを決めた女子ダブルスの3位決定戦から3日が経ちました。それからどんなことがありましたか?

志田 インスタグラムだったり、LINEだったり、メッセージがたくさん来ています。あと、ありがたいことにテレビの収録や、こういうインタビューも増えていて、オリンピックは違うな、と感じています。

松山 本当にメッセージの量が、今までの大会とまったく違います。

――シダマツペア、ワタガシペアとテニスのノバク・ジョコビッチ選手の写真がSNSに流れてきていて、話題になっていました。あれはどんな流れで撮ったんですか?

志田 エッフェル塔の前でメダルセレモニーがあって、そこへ参加させていただいたときに、自分たちの順番がジョコビッチさんの次の次だったんです。近くにいらっしゃって、声をかけて撮らせていただきました。

――同じラケット競技ですが、以前からテニスやジョコビッチ選手に興味をお持ちだったんですか?

松山 テニスはあまり分からないですが……(苦笑)。ジョコビッチさんが本当にすごい人というのは知っていますし、生涯ゴールデンスラムを達成(全豪、全仏、ウィンブルドン、全米の4大大会に加えて4年に一度の五輪も制覇)された、本当に神みたいな人なので。お会いできて良かったです。

作戦がハマった3位決定戦

3位決定戦はストレートの快勝だった 【写真は共同】

――3位決定戦はマレーシアのパーリー・タン/ムラリタラン・ティナア組を2-0で下す素晴らしい内容の勝利でした。志田さんは試合直後に「作戦がハマった」と仰っていましたが、どのような作戦だったのかあらためて振り返っていただけますか?

志田 五輪は緊張する場でもありますし、どのペアも「乗ったらどんどん行ってしまうだろう」という感覚がありました。自分たちがやっぱり簡単に(シャトルを)上げてしまっているときは、あまりいいリズムで試合ができないし、緊張したときにディフェンスから入るのは厳しい。2人で話して、サービスの場面からしっかり落として、先にこっちが攻める展開を作っていこうと決めていました。しっかり出だしから(シャトルを)先に沈めて、自分たちがずっと攻めている状態、相手が先に引いてくれる展開は作れたのかなと思います。

――スマッシュなどで強く打ち込む場面を増やそうということですか?

志田 そうです。まず前にスペースがあったら、しっかりそのスペースに置いて相手に「上げさせる」展開を作れたら一番いい。何も考えていないとスペースが空いているのにただ上げてしまっている、ディフェンスからゆっくり入ってしまう展開を作りがちです。しっかり足を動かして、サービスを打った人も前で狙えるところはどんどん狙って、先に落として相手に下から触らせる展開を作りたいという意図でした。

――3位決定戦は2ゲームとも21-11と大差をつけましたが「イケイケ」「乗っている」感じだったのですか?

松山 あまり点差は考えず、余裕もずっとなかったです。終わってみれば点差はありましたが、やっているときはもう「とにかく早く1点」という感じで、自分たちの点数だけ考えていました。

――終わったときは率直にどんなお気持ちでしたか?

志田 3位決定戦の前はすごく不安でした。メダルがかかっている試合で、今までにない心境でした。でも勝って終われて、すごく嬉しかった気持ちと、何よりもホッとした気持ちが大きかったです。

松山 私も「勝った喜び」より、試合が終わってオリンピックもやっと終わって、ホッとした気持ちが大きかったです。

序盤は苦しんだパリ選考レース

志田千陽選手は秋田県出身の27歳 【撮影:大島和人】

――志田さんは2016年、松山さんは17年に再春館製薬所のチームに入って、ずっとペアを組んでこられたわけですが、一番つらかった時期はいつ頃ですか?

志田 若いときはまずB代表を目指して、次にA代表を目指す段階の中で、壁にぶつかることはたくさんありました。その中でも初めて経験したオリンピックレース(パリオリンピックの選考争い)の序盤は、やはり思った以上にプレッシャーがあって、自分たちが行けなかったらどうしようという不安もありました。調子もなかなか上がらず、そこで今までない苦しみを味わいました。

――東京大会のときは、まだ「代表争い」というところまで行けていなかったんですね。

志田 そうです。日本は4つのペアがA代表に入るのですが、東京オリンピックのレースが始まった時点でそこに私たちは入っていませんでした。なので、東京は厳しい立ち位置で、私たちはもう「パリを目指す」という気持ちでした。

――パリオリンピックの選考レースで、浮き沈みがあったんですね。

松山 レースの後半はモチベーションを高くいけて、結果も良かったです。ただ1年を通して、レースの序盤は勝てなかったり、波があったりしました。でもずっといいプレーヤーの方が少ないと思いますし、悪いときにどう立て直して、どういい方向へ持っていけるかも大事です。そこはあまりマイナスに考えず。波があるのは普通なのかなと考えていました。

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著者プロフィール

1976年に神奈川県で出生し、育ちは埼玉。現在は東京都北区に在住する。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れ、世界中のスポーツと接する機会を得た。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を開始。取材対象はバスケットボールやサッカー、野球、ラグビー、ハンドボールと幅広い。2021年1月『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』を上梓。

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