全員が9秒台の高次元の男子100m決勝 世界のハイアベレージ化を朝原宣治が分析

久下真以子

かつてないほどハイレベルで拮抗した戦いとなった男子100メートル決勝。1位から7位までが9秒8台以上の記録だった 【写真は共同】

 パリ五輪の陸上男子100メートルの準決勝と決勝が8月4日(日本時間5日)に行われ、サニブラウン・アブデル・ハキーム(東レ)は準決勝で自己ベストとなる9秒96を記録するも4着に終わり、日本勢92年ぶりとなる決勝進出を果たせなかった。その後に行われた決勝では、自己ベストを更新する9秒79の走りを見せたノア・ライルズ(米国)が世界最速の称号を手にした。

 2位のキシェーン・トンプソン(ジャマイカ)もライルズと同じく9秒79、3位のフレッド・カーリー(米国)は9秒81と金メダル争いはまさに大混戦。出場8選手全員が9秒台というかつてないほどハイアベレージな高速レースとなった。

 準決勝で敗退した選手も含めると9秒台を出した選手は実に12人。世界陸連によると、9秒台でファイナリストになれなかったケースは五輪史上初めてとのことだ。決勝に進出する選手のレベルの平均値が上がっている状況をどう捉えるべきなのか。日本短距離界のパイオニアで、北京五輪男子4×100メートルリレーの銀メダリスト・朝原宣治さんに話を聞いた。

男子100メートルはまさに「新時代の幕開け」

見事に金メダルに輝いたライルズは、実力もさることながらメンタルのタフネスさを示した 【写真は共同】

 決勝のレースは、「新時代の幕開け」を感じさせましたね。8人の選手がほぼ横一線でフィニッシュした展開が偶然ではないのだとしたら、男子100メートルのレベルがかなり高くなっているのだと思います。世界記録保持者のウサイン・ボルトさん(ジャマイカ)がいた時代も、タイソン・ゲイさん(米国)やアサファ・パウエルさん(ジャマイカ)、ヨハン・ブレークさん(ジャマイカ)ら速い選手がそろっていましたが、ボルトさんが群を抜いていました。でも今大会は、8人全員が平均的に速かったのが一番の驚きです。

 ライルズ選手は、2023年の世界選手権で3冠を成し遂げた実力者です。ただ、今回は予選も準決勝も2着だったので、金メダルを獲ったのは正直予想外でしたね。直前のレースで負けたという精神的にも不利な状態で決勝を迎えているにもかかわらず、自己ベストで優勝するのは、なかなかできないことです。決勝ではスタートの反応時間が一番遅かったのですが、このスタートが決まっていればもっと楽に走れていたかもしれません。それでも後半に伸びて1000分の5秒差で差し切ったところに、彼の執念を感じましたね。

 僕自身は、金メダル予想をトンプソン選手としていました。今年すごく調子が良かったですし、スタートで出遅れたり加速でミスをしたりしない選手なんですよ。決勝も自己ベスト(9秒77)に近い記録で走りましたが、惜しくもライルズ選手に敗れてしまいました。ただ、準決勝から決勝まで1時間半くらいしかないことを考えると、どの選手も本当に化け物だなと思いました(笑)

 東京五輪では、金メダルのラモントマルチェル・ヤコブス選手(イタリア)やアジア記録を出した蘇炳添選手(中国)ら、新興国の選手の台頭が印象的でした。パリ五輪でもアカニ・シンビネ選手(南アフリカ)、レツィレ・テボゴ選手(ボツワナ)ら新しい顔ぶれが出てきましたが、やはり米国やジャマイカは強いなと痛感したレースでしたね。

「先入観」を捨てることが日本の成長のカギ

9秒96を叩き出したサニブラウンも決勝に進めなかった。9秒9台が速いという先入観を捨てなければ、日本は世界では戦えない 【写真は共同】

 サニブラウン選手は日本勢92年ぶりの決勝進出が期待されていましたが、本当に惜しかったですね。レース後に「世界の選手たちはどんどん先に行っているので、ちょっと追いつくだけじゃ足りない」とインタビューで語っていました。ただ、僕たちからすると、準決勝の舞台で自己ベストを出せたのは本当に素晴らしいことです。

 東田旺洋選手(関彰商事)と坂井隆一郎選手(大阪ガス)は残念ながら予選で敗退してしまいました。28歳の東田選手は日本のトップレベルでありながら、なかなか五輪の切符をつかめなかった選手なので、やっと大舞台に立てたという意味では本当によかったなと思います。坂井選手は僕自身、近くでずっと成長を見てきたんですけど、6月の日本選手権以降、万全の状態だった印象でした。もしかしたら、五輪という特別な舞台で力が入り過ぎてしまった部分もあるかもしれませんね。

 日本選手は、「9秒9台を出しても決勝に残れない」という現実を突きつけられました。世界との差を埋めるためには、「日本記録を出せば決勝に行けるんじゃないか」という幻想や先入観を捨てて、「どのくらいのタイムを出せば世界と戦えるのか」というイメージをもっと抱く必要があると感じています。中学・高校世代からの、設備や指導法も含めた底上げですね。

 また、トップ選手はさらにハイレベルな争いでの経験値が必要になってくるでしょう。海外の強い選手たちは、普段から見ているスピード感が異なります。10秒台で走っていた選手に、いきなり五輪で9秒台を出せと言っても難しい話です。「競り合いの中で9秒台をコンスタントに出す」という感覚を身につけることが、世界に追いつくためのカギになると思います。

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著者プロフィール

大阪府出身。フリーアナウンサー、スポーツライター。四国放送アナウンサー、NHK高知・札幌キャスターを経て、フリーへ。2011年に番組でパラスポーツを取材したことがきっかけで、パラの道を志すように。キャッチコピーは「日本一パラを語れるアナウンサー」。現在はパラスポーツのほか、野球やサッカーなどスポーツを中心に活動中。

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