元世界王者の比嘉大吾と宮古島で切磋琢磨した2人 川満俊輝、狩俣綾汰の“あららがま魂”

船橋真二郎

比嘉、川満、狩俣の共通の原点

左から川満、狩俣、比嘉。2013年には3人でインターハイに出場した 【写真提供:狩俣綾汰】

 別の取材で訪れていた三迫ジムで、初めて狩俣を見た日の強烈なシーンが忘れられない。まだデビュー前だった。スパーリングで右をブンと空振りし、その自分のパンチの勢いのままリングにゴロリと転がった。それも2度まで。

 腕ならしで出た社会人選手権で3位になり、東京に来て間もなく。力も入っていたのだろう。が、どこまでも攻撃的なファイトとともに大胆にパンチを振り切れる姿は強く印象に残った。

 一足先にデビューしていた川満は2試合続けて広島で戦い、初めて後楽園ホールに立ったのが3戦目。川満もまた徹底してアグレッシブで、打たれても2倍、3倍の手数で相手をのみ込み、ねじ伏せるような戦いぶりが異彩を放った。

 比嘉のボクシングの根っこにあるものとも通じる、2人のボクサーを成しているものが、共通の原点である宮古島時代にあることは間違いなかった。

 知念監督は宮古工業高校から長男・健太朗(2009年・ウェルター級)、次男・大樹(2010年・バンタム級)をインターハイに出場させ、合同で練習を見る宮古総合実業高校からジュリアン・ジョンソンをインターハイ準優勝(2011年・ミドル級)に導いた。

 中でも、宮古総合実業高校の狩俣(ピン級)、宮古工業高校の川満(ライトフライ級)、同じく比嘉(フライ級)、3人をインターハイに送り出した2013年の“快挙”が光る。

「沖縄本島なら、いろんな学校が集まって合同スパーリングとか、一緒に練習ができますけど。離島の宮古島ではできないですから。県を獲るのも大変なんです」

 宮古島から那覇までは飛行機で約1時間。遠征には時間も費用もかかる。軽量級に3人が集中したことは大きかった。スパーリングでお互いを高め合った。

 全員が高校からのスタートの中、「負けん気が強くて、体力があった」(知念監督)こともあり、常に比嘉が頭ひとつ抜けていたが、闘志を見せていたのが川満だった。

「こいつに勝ったら、強くなれると思って、毎回、毎回、頑張るんですけど。どうしても大吾には勝てなくて。迎えに来てくれた母ちゃんの車の中で落ち込んで、悔し泣きしたこともあったし、『くっそー!』っていう毎日でした」

 普段はおっとりしているが、リングではガラッと変わった。

「俊輝は昔からリングに上がると顔が変わります。飢えたライオンが久しぶりにエサにありつくみたいな目をします。セコンドで『お前、監督を殺すなよ』とたまに冗談を言ったり(笑)」

 一方の狩俣。「正直、大吾とのスパーがある日は憂鬱でした」と苦笑する。「パンチが強くて、石のようだったんで。学校が違うから、自転車か、おばあの車で練習に行くんですけど、嫌だなと思いながら」。知念監督の「お前にはパンチがある」という言葉が支えのひとつだった。

「綾汰のパンチでグラッときて、大吾の動きが止まることもありましたから。パンチでは負けてなかったですよ。これは親から授かった天性のものだから、パンチに頼ったボクシングをしてはダメだけど、自信を持てと」

環境に恵まれなくても

 比嘉、川満、狩俣が「きつかった」と口をそろえたのが、大会に向け、知念監督のラーメン店で寝食をともにする恒例の2週間の合宿だった。特に朝5時からの走り込みだ。往復約15kmの道のりには負荷のかかる砂浜も含まれていた。

「沖縄本島には練習相手がいっぱいいるけど、宮古ではいくらでも走ることができる。勝つには練習量を増やすしかない。環境に恵まれなくても勝てるということを監督は伝えてくれたんだと思います」(川満)

「普段の練習からそうだったんですけど、宮古から絶対に勝ち上がるぞって、きつい練習で自然とあららがま魂を教えられました」(狩俣)

 これも全員がそろって口にした思い出があった。朝の走り込みでコースを折り返し、ゴールのラーメン店が近づいてくる。道を逸れて、少し行ったところに川満の自宅があった。

「3人で俊輝の家に逃げよう! 母ちゃんに助けてもらおう!」

 そんな冗談を真っ先に言ったり、バカをやったりするのが比嘉で、突っ込みを入れたり、話を拾ったりするのが狩俣、静かにニコニコ見ているのが川満。比嘉を中心に笑い合い、励まし合いながら、きつい練習を乗り越えて、結果を残した。

プロ初黒星のショックを乗り越えて

昨年12月17日、神戸で日本王者になった川満(中央)と三迫ジムのサポート陣。右隣が三迫会長。左隣が横井トレーナー、その左が加藤トレーナー 【写真:船橋真二郎】

 東京で再び一緒に歩み始めた川満と狩俣の2人。刺激を与え合い、競い合うようにして、ともに攻撃的なスタイルで連勝を重ねた。いつしか「綾汰につなげられた」「俊輝にバトンを渡せた」が試合後の合言葉のようになった。

 だが、すべて順風満帆に続くほど勝負の世界は甘くはない。狩俣がトーナメントを勝ち抜いて全日本ライトフライ級新人王に輝いた5ヵ月後、川満がタイトルに初挑戦。当時のWBOアジアパシフィック・ミニマム級王者で、現IBF世界ミニマム級王者のサウスポー、無敗の重岡銀次朗(ワタナベ)が相手だった。

 2回だった。右フックをカウンターでもらった川満が前のめりに崩れるダウン。再開後、重岡の厳しい追撃に対し、果敢に打ち返したが、またも右フックがカウンターで決まり、ふらついたところでストップとなった。川満はキャリア初のダウン、プロ初黒星を喫した。

 そして1年後の2022年7月、大阪・なんばでの日本ランカー同士の一戦で、今度は狩俣が痛烈に倒され、KO負け。連勝が止まった。

 ショックは大きく、立て直すまでしばらく時間を要したが、2人は練習を再開。それぞれ自分と向き合い、ボクシングに打ち込んだ。三迫ジムで狩俣を担当する加藤健太トレーナー、川満の横井龍一トレーナーの各選手評は「真面目、素直、謙虚」で一致する。

「とにかく地道な練習を黙々とやります。器用な選手じゃないので、そういう部分で勝っていくしかないんですけど。そういう基本的な部分、人間性は高校時代に養われたのではないでしょうか」(横井トレーナー)

 先に再起を果たしたのは川満だった。2022年8月、当時12戦全勝全KOの戦績を誇るタイの世界ランカーと大阪・枚方で戦った。それも苦杯をなめた重岡と同じサウスポー。「負けたあとが分岐点になる。甘やかすより、強い相手のほうが力を発揮するタイプ」と川満の気持ちの強さを信じた三迫貴志会長のマッチメークで、本人も「乗り越えたい」と即決したという。

 接近戦でのパンチの交換で、徐々に川満が上回った。迎えた3回に右フックで倒し、連打を浴びせてストップ。リングの上で涙を流した。

「倒されても、また立ち上がれることを綾汰に見せたかった」

 試合後、川満は思いを吐露した。リングサイドには狩俣の姿があった。その2週間前の大阪で負けた夜、狩俣から電話があり、ひどく落ち込んだ様子に心を痛めた。川満もまた負ける怖さ、重さを噛みしめているところだった。「よし、頑張ろう」と奮い立つ理由になったのだという。

「俊輝が勝った瞬間、涙が出てきました。めちゃくちゃ嬉しくて。でも、そんな気持ちでやってくれてたのは分からないじゃないですか。あとで聞いて、また感情が噴き出るものがありました」

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著者プロフィール

1973年生まれ。東京都出身。『ボクシング・ビート』(フィットネススポーツ)、『ボクシング・マガジン』(ベースボールマガジン社=2022年7月休刊)など、ボクシングを取材し、執筆。文藝春秋Number第13回スポーツノンフィクション新人賞最終候補(2005年)。東日本ボクシング協会が選出する月間賞の選考委員も務める。

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