高校選手権4度Vの名将・布啓一郎氏が語る 市立船橋での20年とその後

栗原正夫

異動を機に、教員からプロの指導者の道へ

市立船橋を離れて20年以上が経過。「若い方は当時のことは知らないでしょう」と笑顔も見せた 【栗原正夫】

 02年度に、4度目の選手権優勝を遂げたあと、布氏は市立船橋の監督を退任し、U-16日本代表監督に就任。教員から、プロの指導者へと転身した第一人者となった。転身の理由は、異動の内示があり、市立船橋を離れることが決まったことが背景にあったという。

「普通は1つの学校に長くて15年くらいのところ、私は市立船橋に20年勤めさせてもらいました。ただ別の学校に異動し、市立船橋と戦うという選択肢は自分には持てなかった。そんなときにJFA(日本サッカー協会)からオファーがあり、05年のU-17世界選手権(現U-17W杯)を目指すチームの監督を引き受けることになりました。

 市立船橋の監督時代にどんな思いがあるか? 私は指導者としては本当に叩き上げで、高校サッカーの先輩の先生方との試合を通して鍛えられたと思っています。そういう意味で、市立船橋での20年がなければいまの私はありません。若い頃はスパルタも当たり前で、教え子に聞けば、私の悪口がたくさん出てくるかもしれません(笑)。それでも、どんなときも情熱だけは絶対に忘れずに指導してきたつもりです」

 単独チームと選抜チームではトレーニングに使える時間やマネジメントのやり方も異なり、プロの指導者へと転身した布氏にとって、最初の仕事がいきなりU-16日本代表監督だったことは難しさもあったのだろう。世界選手権の出場を逃すなど、望んだような結果は出せなかった。

 ただ、そうした挑戦があったからこそ、23年に元青森山田の黒田剛監督がFC町田ゼルビアを率いることにつながったことも確かで、後進者に道を作ったことは間違いない。

(後編へ続く)

布啓一郎(ぬの・けいいちろう)

1960年12月21日、千葉県習志野市出身。日体大を卒業後、83年に市立船橋に赴任。85年度に全国高校選手権に初出場すると、94年度の初優勝を皮切りに4度の全国優勝。インターハイも4度制した。01年にS級コーチライセンスを取得し、03年以降はU-16、U-19日本代表の監督を歴任。15年にファジアーノ岡山(J2)コーチに就任。18年から19年にザスパクサツ群馬(J3)、20年に松本山雅FC(J2)、21年にFC今治(J3)、22年から23年までVONDS市原(関東1部)の監督を務めた。24年からAC長野パルセイロ(J3)ヘッドコーチ

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著者プロフィール

1974年生まれ。大学卒業後、映像、ITメディアでスポーツにかかわり、フリーランスに。サッカーほか、国内外問わずスポーツ関連のインタビューやレポート記事を週刊誌、スポーツ誌、WEBなどに寄稿。サッカーW杯は98年から、欧州選手権は2000年から、夏季五輪は04年から、すべて現地観戦、取材。これまでに約60カ国を取材で訪問している

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