星野と落合のドラフト戦略 元中日スカウト部長の回顧録

落合監督時代のドラフト 就任1年目「高校生は1人もいらない」発言の真意

中田宗男

「高校生は1人もいらない」。1年目のドラフトから、落合監督が大学・社会人出身の選手を評価する方針は一貫していた 【写真は共同】

「星野さんは人を残し、落合さんは結果を残した」。スカウト歴38年、闘将とオレ竜に仕え、球団の栄枯盛衰を見てきた男が明かすドラフト舞台裏。
中田宗男著『星野と落合のドラフト戦略 元中日スカウト部長の回顧録』から、一部抜粋して公開します。

「那須野でいってくれ」

 就任1年目でリーグ優勝を成し遂げ、世間を驚かせることになる2004年。この年から実質的な「落合監督時代のドラフト」がスタートした。

 前年のドラフトが終わった時点で、スカウト部内では「来年は北九州市立大の中田賢一、日本通運の川井進をまず狙う」という大まかな方向性は決まっていた。落合さんからは、来年はどこのポジション、どこどこの誰を獲ってくれなどの話はこのときはまだなかった。だが、2004年シーズンが開幕した頃こう言われた。

「那須野でいってくれ」

 日本大の那須野巧は体が大きく、手足も長い大型左腕。この年の目玉の1人だった。バランスを少し崩すとストライクが入らなくなる、やや危なっかしいところのあるピッチャーだったが、3年の秋頃からバランスがピタッと合いだし、4年の春には目を見張る素晴らしいボールを投げるピッチャーになっていた。だが、那須野は早くから横浜でほぼ決まっていると言われていた。実際、横浜の担当スカウトからも「那須野からすでに返事をもらった」という話も聞いていた。

「でも那須野は横浜で決まっていますよ」

 落合さんにそう話すと、予想していなかった言葉が返ってきた。

「いや、まだ決まってないみたいだぞ。ウチだったら来たいって聞いてるぞ」

 落合さんはどこからそんな情報を入手したのだろうか?

 おそらくだが、当時二軍監督だった佐藤道郎さんからではないかと思っている。落合さんとも親しく日本大OBでもあるからだ。

 後に横浜は那須野に5億3千万の契約金を払っていたことが明るみとなり問題になったように、自由獲得枠は非常にお金のかかる制度だった。

「絶対に止めたほうがいいですよ。今から巻き返すのであれば相当これ(お金)がかかりますよ」

「それはいいんだ。とりあえずいってくれよ」

 まだそういう裏の競争があった時代。那須野の契約金も最初はもっと安かったのだが、うちが後から獲得競争に参入したため、契約金がどんどん膨れ上がっていった。横浜のスカウトからも「もう勘弁してくれ。中日が1回会うたびに契約金が上がっていく」と泣きつかれたこともあった。

 結局、中日は契約金を上げることに貢献しただけで、那須野は当初の話し通りに横浜を選んだ。

 シーズン中は落合さんとはほとんどドラフトの話はしていなかった。星野さん時代は名古屋に戻ることがあればグラウンドに顔を出し、色んな選手のことやスカウティングの進捗などについて話していたが、落合さんとはほとんどなかった。それは落合さんが情報流出に対して強い警戒感を持っていたから。だからシーズン中に頻繁に球場に出入りすることがはばかられた。ようやく落合さんと話す機会を持てたのは9月か10月になってからだ。

 1巡目は将来性を重視してスケールの大きな高校生でいきたいと考えていた。第一希望は東北高のダルビッシュ有(日本ハム1位/現パドレス)だったが、おそらく競合になるだろうと予想し、単独狙いで横浜高の涌井秀章(西武1位/現中日)でいきたかった。そのことを落合さんに相談すると「そんな話は一切やめてくれ」と言われてしまった。

「今年は高校生は1人もいらないから。今のうちに高校生を育てている余裕はないぞ。全員社会人か大学生でいってくれ」

 落合さんの口からは「JR九州の樋口(龍美)でいってくれ」と具体的な名前も出た。

 私の心境は、意外かもしれないが「まぁ仕方がないか」だった。

 あとで述べるが、当初から狙っていた北九州市立大の中田と日本通運の川井を抑えてあった。即戦力ピッチャーを2人抑えているので1位ではスケールの大きな高校生を指名して冒険をしたい気持ちがあった。だが現場の指揮官がそう言うならば高校生は諦めようと思った。

 樋口の獲得に関しては、28歳という年齢も、怪我の状態も、ネックはすべてにおいてあった。だがこの時点で獲得できるめぼしい即戦力投手も限られるし、なによりも落合さんが「高校生を育てている余裕はない」「樋口でいってくれ」と言っているのだから、樋口を獲りにいかない理由もなかった。今にして思えば、落合さんが当初欲しがった那須野を獲得できなかったという後ろめたさもあったかもしれない。

 樋口の獲得競争はこのとき西武がリードしているとされていたが、うちが後から獲得競争に参入すると撤退した。その西武がドラフトでは涌井を単独1位で指名した。もしかしたら樋口をダミーにしたのかもしれない。西武は実にしたたかで巧妙なドラフトをする球団だからだ。

 樋口は日田林工高(大分)、九州国際大時代はごくごく普通のピッチャーだった。それが社会人6年目、28 歳になって急激に良くなった遅咲きの選手だった。社会人で埋もれていた期間がありながらも急激に良くなる選手は、プロに入って間違いなく活躍できる。落合さんはそんな考えを持っていたように思う。樋口はある意味落合さん好みの選手でもあった。

 樋口はプロ入り後は怪我に苦しみ、一軍未登板のまま3年で引退した。アマチュア時代から怪我を抱えていたが、急遽獲得に動いたためこちらも怪我の状態を正確に調べきれないままの獲得だった。

中田賢一獲得のために流した噂

 2巡目で獲得した中田は、一言でいえば素材が良かった。ボールが速くて馬力があり、そしてスタミナは無尽蔵。本来自由枠でなければ獲れないピッチャーだった。他球団のスカウトからも「中田を自由枠を使わずに獲るなんてずるい」とよく言われたものだ。これには秘策があった。北九州市立大の監督は私の大学の同級生。中田が入学した頃から「良いピッチャーが入ってきたぞ」という情報をもらい、九州担当の渡辺スカウトに見に行かせていた。「めちゃくちゃいいです。馬力もあって体つきもいい」という報告を受け、早くから目をつけていた。私も見に行ったが、その場で「うちが3年後に獲るからな!」と言ったほどだった。それくらい中田の投げるボールは強烈だった。

 この逸材をどうしても欲しかった私は、中田が私と同じ名字であることを利用して「中田は中日の中田スカウトの親戚らしい。中日以外には絶対に行かないみたいだ」という噂を流した。これが上手くいった。だが、他球団が手をこまねくなか、地元のダイエーが黙っていなかった。2巡目で指名というならば「ウチが指名するぞ!」とけん制をしてきた。

 最後まで横やりが入らないかドキドキしたが、最終的にはどこも指名をしてこなかったため、中田を無事に2巡目で指名することができた。

 中田を自由枠で獲得したほうが安全ではあったが、ダルビッシュか涌井を1巡目で指名することを最後まで模索していたので、どうしても自由枠を使わずに獲得したかったのだ。

 この年はドラフトの目玉の1人でもあった明治大の一場靖弘が、複数球団から栄養費名目で金銭を受け取っていたことが発覚して大きな問題となった。中日といえば昔から明治大とは強い関係性があったが、私は一場のことは評価していなかった。厳しい言い方をすれば「ボールが速いだけのピッチャー」という評価だった。また、それ以前に「ちょっとややこしいところがあるから止めましょう」と、担当スカウトから暗に後の問題を見越していたような報告もあったから、中日は獲得競争には加わらなかった。

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