1位で川上憲伸、5位で井端弘和をすんなりと指名 星野中日の1997年「会心ドラフト」の秘話
1位で川上、5位で井端。会心の指名となった97年のドラフトを振り返る 【写真は共同】
中田宗男著『星野と落合のドラフト戦略 元中日スカウト部長の回顧録』から、一部抜粋して公開します。
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ドラフトの目玉、川上の逆指名
川上の一番の魅力はピッチャーとして一番大事なアウトローへの制球力が抜群に良かったこと。フォームも下半身で引っ張ってきてぐーんと重心移動して、下半身の力で最後に一気に爆発させる。その理想的なフォームから投げられるボールは球速こそ145 キロ前後だったが、球筋も良く、球威、精度も抜群だった。この年のピッチャーの中では群を抜いた存在だった。
川上は徳島商業高時代に甲子園に出ていたが“良い投げ方をしている、まとまりがあるピッチャー”程度の印象しか残っていなかった。進学希望という話も聞いていたのでドラフト候補としては見ていなかった。仮に本人がプロ入りを希望してもドラフトのボーダーラインくらいの評価だったと思う。高校時代の評価でいえば、94年に1位指名した豊田大谷高の平田のほうが断然上だった。それが明治大では2年頃から体格が目に見えて大きくなり、すごいボールを投げはじめていて驚いた。
川上ほどの選手をすんなり獲得できたのだから、前年は泣かされた逆指名という制度が、この年は中日にとっては有利に働いたことになる。もっとも、「すんなり」とはいっても、それは結果的にであって、裏では他球団がちょっかいを出す素振りを見せたりと、いろいろな駆け引きはもちろんあった。だから担当スカウトは最後まで息を抜けず大変ではあったのだが。
その逆指名のもう一枠を使って、狙っていたのがJR東海のピッチャー・永井智浩だった。ナゴヤドーム元年を最下位で終えていたこの年、投手陣の整備が不可欠だったのだ。
永井は私が関西地区担当だった頃、明石高時代から追いかけていた選手でもあったが、高校時代から故障の多い選手で、社会人になってからも肘に不安を抱えながら投げていた。肘の故障具合は、入団直後に手術する必要があるほどだったが、それでも持っている能力の高さもあり2位での獲得を目指していた。万全であればもちろん1位でなければ獲れない選手でもあった。
永井に挨拶に行った時点ではダイエー以外の球団はどこもマークしておらず、獲得の手応えは十分にあった。相思相愛に近い関係が築けていると思っていた。だが、9月に入った頃だっただろうか、ダイエーが獲得合戦に本腰を入れてきた。中日は川上の1位は動かせないので永井を獲ろうとすれば2位でいくしかなかった。もっとも、この頃になると藤蔭高(大分)のスラッガー森章剛を気に入った星野さんが「永井は肘が悪いんだったら3位でも獲れるだろ。2位は森でいけよ」と言いはじめ、永井の2位指名すらも危うい状況になっていた。
「今さら『3位で……』なんて言えないですよ」と星野さんに泣きついたが、最悪の場合は本人には「2位で指名する」と約束しておいて「手術の不安があったから土壇場で3位になった」と後で説明するしかないかと、そんなことが頭をよぎり心苦しさを感じていた。
最終的に永井はダイエーを逆指名した。相手が「1位」という最高条件を出したのだからダイエーを選ぶのも当然だった。こちらとしても致し方がなかった。前年の井口、柴原に続いて、またしても狙っていた選手の獲得合戦でダイエーに敗れた。
その永井はプロ入り2年目に二桁勝利を挙げると、99年の日本シリーズでは中日を相手に6回無安打の好投を見せて日本一に大きく貢献する活躍を見せた。このときはさすがにドラフトで獲れなかった悔しさが頭をよぎった。
中日は森を2位で予定通り指名した。前年にも2位で森野を指名していたが、森には森野とはまた違ったホームランバッターとしての魅力があり、2年続けて高卒の左バッターを上位で指名することは気にはならなかった。それぐらい森の長打力の評価は高かった。
3位で獲得したNTT北陸のサイドスロー、正津英志は担当スカウトの法元さんから「正津おもろいで」と推薦があって獲得したピッチャーだった。新人王を獲得した川上の陰に隠れがちだが、45試合に登板して6勝1敗、防御率2・45という成績を残し、新人王級の活躍で中日ブルペンを支えてくれた。今は中日でスカウトをしている。
4位で東北福祉大のキャッチャー、鈴木郁洋を獲得しているが、前年には亜細亜大の中野栄一、その前は藤井を指名しており、3年連続で大学生キャッチャーの指名となった。当時の一軍正捕手は中村だったが、中村の後釜候補という一面ももちろんあったが、この年のドラフト前には矢野が阪神にトレードされており、二番手キャッチャーの獲得も急務だったのだ。鈴木は東北福祉大の先輩と入れ替わる形で中日に入団した。