ドラ1大学生投手の知られざる高校時代【武内夏暉編】 西武1位の大型左腕、「芯を食われない直球」に才能の片鱗
3球団が競合した武内(左)は、この左腕の1位指名を最初に表明していた西武が交渉権を獲得。背番号は21に内定した 【写真は共同】
高校3年時の登板試合数はチーム3位だった
最速153キロのストレートに、落差の大きなツーシーム。さらにスライダー、チェンジアップ、カーブを器用に駆使した投球術が高く評価された185センチの大型レフティ。今秋のドラフトでは「大学ナンバーワン左腕」の呼び声にふさわしく、1巡目入札でヤクルト、西武、ソフトバンクの3球団が競合し、抽選の結果、西武が当たりクジを引き当てた。
大学時代は4年秋に向かって目覚ましい成長を遂げた武内だったが、福岡県立八幡南高時代に甲子園出場はない。八幡南で武内を指導した福盛徳之監督は「いずれはプロに行く投手だと思っていた」と振り返るが、当時の武内は必ずしも傑出した大エースというわけではなかった。
「武内の3年時は彼を含めて左が3枚いて、ひとつ下にもキレのいい140キロ弱を投げる右の濵本建(九州産業大3年)という投手がいました。あの代は相手を見ながらローテーションを決めていたので、決して彼ばかりに頼っていたわけではありません。投手陣の登板試合数を見ても最多が濵本で、武内はチーム3位に過ぎませんでした。おそらく近隣の学校には、濵本がエースだと思われていたはずです」
福岡大会では2年春秋、3年春の4回戦進出が最高で、3年夏は3回戦で涙を飲んだ。その試合で敗戦投手となったのは、先発して6回7失点の武内だった。
最初は打者としてのイメージが強かった
八幡南では絶対的なエースではなかったが、すでに才能の片鱗を覗かせていた。福盛監督が特に感心したのがストレートの質で、しっかりミートされたヒットは「あまり記憶にない」という 【武内投手の御家族提供】
中学時代の武内は、折尾愛真中軟式野球部の一期生としてプレーした。そして、同中学校の監督が八幡南OBだったこともあり、福盛監督と繋がったのである。
「第一印象は体の大きさ。そして、バッティングですごい飛距離を出していたので、打者としてのイメージが強かったです」
高校1年時の武内は、夏までに練習試合で1イニングを投げたのみ。中学2年時に左肘を手術していたため、無理をさせられなかったからだ。
1年秋の新チームからは4番・一塁手として出場した。3回戦でこの大会で優勝する東筑に1-11というワンサイドゲームで敗れたが、武内は相手エースの石田旭昇からタイムリーを放っている。石田はその年の夏に甲子園のマウンドで投げており、さらに翌年のセンバツでも登板し、高校卒業後は法政大でプレーした右サイドハンドだが、武内は持ち前のコンタクト能力の高さを見せて石田を攻略。打者としての非凡さをアピールしたのだった。