年俸を言いながらプロ野球選手に握手を求める子ども? 難病で引退・元オリ西浦の幼少期とは
22歳で現役を引退した西浦颯大。「本当に野球しかしてこなかった人生」と振り返る 【写真は共同】
中学、高校と輝かしい経歴を歩み、オリックスではあのイチロー以来、10代でホームランを記録するなど華々しい野球人生を歩んでいた。
そんな“野球に愛された男”に突然の病魔が襲い掛かる……
国の指定難病「特発性大腿骨頭壊死症」を患い、医師から告げられたのは「復帰は8割強、無理」という非情通告……
懸命にリハビリに励むも、復帰は叶わず、22歳の若さで球界を去ることに……
引退を決めた後輩に、山本由伸、宗佑磨がヒーローインタビューで投げ掛けた言葉とは?
中嶋聡監督が取った意外な行動とは? そして西浦が引退試合で許された「たった1球の物語」とは――?
西浦颯大著『もう一回野球させてください神様』から、一部抜粋して公開します。
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野球との出会い
そうは言っても、一般的に「父親とのキャッチボール」と聞いてみなさんが思い浮かべるであろう微笑ましい光景とはかなり違うものだと思いますが(笑)。
たぶん4、5歳ぐらいだったと思います。赤い縫い目がプリントされたゴムボールでキャッチボールをしていたのですが、オヤジの剛速球が目に当たって、大泣きしたのを覚えています。4、5歳の子供相手に、本気で投げるんですから。
一番古い記憶も〝野球〞というのが、僕らしいですね。本当に野球しかしてこなかった人生なので。
オヤジが高校まで野球をしていたので、僕にもやって欲しかったんでしょうね。まだ生まれて間もない頃から、ビニール製のバットやボールを持たされていたそうです。
僕が生まれた翌年の我が家の年賀状には、僕がバットを持っている写真が使われていたとか。3歳ぐらいにはもう、バットを振って、キャッチボールもしていたと思います。
僕が野球チームに入ったのは小学3年生から。それまではずっとオヤジに教えてもらっていました。
オヤジは厳しかったですよ。家の前でよくキャッチボールをしましたけど、グラブを構えて、「ここしか捕らないからな」と言うんです。外れて後ろに行ったボールは、全部自分で拾いに行かされました。
クソガキだった子供時代
僕が生まれ育ったところは熊本県八代市の田舎だったので、木に登ったり、みんなで集まって鬼ごっこをしたり、ひたすら外を走り回っていたからかもしれません。プロに入ってから、テレビで「腹筋がバキバキに割れていてすごい」と取り上げられたことがあるんですけど、小学1年生の時にはもう腹筋は割れていました(笑)。
ゲームなんて子供の頃は全然しませんでした。オヤジが厳しくて、買ってくれなかったからというのもあります。友達からプレイステーション・ポータブル(PSP)を借りてやったことはありましたけどね。もちろんこっそりと。オヤジにバレたらボコボコにされますから。
子供の頃の僕は……〝クソガキ〞でしたね。
本当にヤンチャでした。人の言うことは聞かないし、乱暴だし。
小学3年生の時に、初めて野球チームに入ったのですが、それは通っていた鏡西部小学校の野球部でした。でもそこは部員が10人ほどしかいなくて、みんなあまりやる気がないし、試合に負けても楽しそうだし……。僕はそれにムカついて、同級生の子をどついてしまったことがありました。
気が短いというか、幼かったんでしょうね。そんな感じで、馴染じめなくて、その野球部はやめることになり、4年生からは小川キングリバースというクラブチームに入団しました。そこでは、5年生も6年生もいる中、入ってすぐに4番を打ちました。
最初はショートなど内野を守っていましたが、5年生ぐらいからピッチャーを始め、エースになりました。
もともとは左投げだったんです。オヤジが左投げだったので、僕も自然とそうなりました。箸を使うのも、文字を書くのも、他は全部右手だったんですけど、野球だけは左投げ左打ちでした。
でも、いつだったか、小学校の体育の授業でソフトボールを投げて計測する時に、先生に「お前は右で投げろ」と言われたんです。学校のグラウンドは狭いので、左で投げたらフェンスを越えてしまうから、と。そう言われて右で投げてみたら、右のほうがもっと強く投げられたんですよ。それから右投げに変えました。