J2王者・町田が歩んだ知られざる歴史 乗り越えた深刻な危機と、J1につないだバトン

大島和人

町田は初のJ2制覇、J1昇格を決めた 【(C)J.LEAGUE】

 FC町田ゼルビアはJリーグに関心があるファン、サポーターからどのようなクラブだと思われているだろうか? 「サイバーエージェントが支える恵まれたクラブ」はありがちな『見られ方』だろう。それが間違いとは思わない。

 もっとも最初から恵まれていたわけではないし、ここに至る道のりはまったく平坦でなかった。ゼルビアはおそらくどのJクラブよりも多くの困難と向き合い、乗り越えてきた。経営体制は何度か変わったが、街とサッカーを愛する無私の人々が活動を守ってきた。今回は地域リーグ時代からゼルビアを支えていた3人の証言をもとに、今に至る危機とその克服を振り返る。(以下敬称略)

「リレー」に成功したクラブ

守屋実はクラブの「バトン」をつないだ一人 【撮影:大島和人】

 守屋実は創設期からゼルビアを支えてきたキーパーソンで、クラブ創設者・重田貞夫(故人)の義弟でもある。小学校の教員を務める傍ら、当初は育成年代の指導者を務めていた。73歳の今もレディースの運転手やマネージャー役を買って出るなど、軽いフットワークで動き回っている。

 J2優勝・J1昇格の感想を尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「OBたちとも話しているけど、現実としてそれをイメージできなかったから、驚くのが一番です。だけど少しずつ、少しずつリレーができた。選手もそうだし、経営もそうですね。正直に言えば途中で3、4回は危機があったけれど、乗り越えたでしょう?」

 彼が最初の危機に挙げるのは2001年。ゼルビアは少年サッカーの強豪・FC町田のOBを中心に誕生し、当時もJリーグ入りを目標に掲げていた。しかし同年の東京都サッカーリーグ1部では11位と低迷し、降格の危機に陥った。そして翌シーズンに向けて、監督のなり手が見つからなかった。

「都の2部に落ちたら、もう続かないだろうと思いました。監督も引き受け手がいなくて、やむなく私が引き受けたんです。大人の指導はしたこともなかったですけど、夜8時から練習をやるチームなんて、誰も監督のなり手がいないですよ」

 ゼルビアはここで踏ん張り、事務局長を務めた小森忠昭、クラブ初の専従スタッフとなった竹中穣(現栃木SCコーチ)、酒井良(現京都サンガU-15コーチ)らの尽力で活動を軌道に乗せる。2003年には特定非営利活動法人(NPO)として法人化し、06年には関東2部、07年には関東1部と階段を上がり始めた。

 ただし2007年は全国地域リーグ決勝大会(現全国地域サッカーチャンピオンズリーグ)で1次ラウンド敗退を喫し、JFL昇格を逃した。このシーズン限りで守屋も監督を降りた。このタイミングもクラブにとっては危機、そして転機だった。

08年にJFL昇格を決める

石黒(右)はボランティアを代表して藤田晋社長(左)から表彰も受けた 【(C)FCMZ】

 ゼルビアは2008年の開幕前にトップチームを株式会社化。町田出身で帝京高・国士舘大のサッカー部OB、実業家の下川浩之(現相談役)を社長として迎え入れる。下川もスポンサー、経営者としてクラブを大きく支えた立役者だ。

 石黒修一(65歳)は建設業の傍ら、08年からクラブのボランティアを続けている。息子がFC町田ジュニアユースの選手だった縁もあり、トップチームのゼルビアを見ていた。07年にはホームゲーム全試合(といってもわずか7試合だが)を観戦するほど、のめり込んでいた。そんな彼にスイッチを入れたのが、地域リーグ決勝大会の敗退だった。

「クラブのすごく落ち込んだ雰囲気が読み取れたんです。かなり無理して背伸びしてやってきていたし『これはどうなってしまうのだろう?』と思いました。自分は町田のシニアリーグでサッカーをやっていたので、そちらがメインでした。でもファン感謝祭のシニアサッカー教室に行ったら、ボランティアの人が2、3人参加者で来ていて、色々と話をしたんです。『楽しそうだな』と思ったし、ゼルビアのために何かしらやりたかったので(ボランティアを)始めました」

 ゼルビアは2008年の地域リーグ決勝大会で、戸塚哲也監督のもとリベンジを果たし、JFL昇格を果たす。09年からはJFLに戦いの場を移した。J3が発足していない当時は、JFLが日本サッカーの3部で、同カテゴリーの4位以上が「Jリーグ入り」のハードルだった。

Jリーグ入会の予備審査を通過できず

津田和樹は都リーグからJ2まで8シーズン在籍した 【撮影:大島和人】

 クラブにとって今に至る最大の危機が、2010年秋のJリーグ入会予備審査だった。チームは同年に就任した相馬直樹監督のもと、成績的にはJリーグ入りが可能なJFLの上位につけていた。しかし肝心の入会審査を通過できず、翌年の昇格も不可能になった。

 津田和樹(41歳)は清水エスパルス、ヴァンフォーレ甲府を経て、05年に都リーグ1部だったゼルビアに加入した。FC町田ジュニアユース出身でもある彼は、昼間は大学に通いながらサッカーを続け、町田にJリーグクラブを作る夢を追いかけていた。左SBやCBでプレーしていた津田は2011年にキャプテンも務め、2012年は8年ぶりのJでプレーもしている。彼は2010年をこう振り返る。

「みんな『J2に上がるぞ』と気持ちを持って取り組んでいる中で、ハードの問題で上がれないという話でした。J2にライセンスの問題で上がれない時期が、一番辛かったです」

 審査不合格の一報があった直後の2010年9月5日、ゼルビアは味の素フィールド西が丘で天皇杯2回戦・東京ヴェルディ戦を戦った。チームは1-0とジャイアントキリングを起こしたのだが、気持ちを必死に奮い立たせながらの戦いだったという。

「正直、乗り越えることはできなかったし、選手はやはりショックを受けていました。でもここで転げ落ちたら来年はないし、個人として昇格できないし、何も残らない。だからシーズンの最後まで戦おう……とみんなで言って臨んだヴェルディ戦でした。サポーターは待っているし、やらなければと何とか(気持ちを)奮い立たせてやっていました」(津田)

Jリーグに乗り込んだものの……

2010年9月の天皇杯2回戦は「悲報」の直後だった 【写真は共同】

 石黒はクラブ創設以来のピンチに立ち上がった。「町田ゼルビアを支える会」の事務局長としてJリーグ側に掛け合い、また市に対するアクションを起こした。もっとも状況は最悪に近かった。

「周りは(ゼルビアに)騙されたというイメージで、ものすごく雰囲気は悪かったです。本当は(支える会の)会長を名のある方にやってもらおうと思っていたのですが、次々に断られて、なり手が最後までいませんでした」

 Jリーグの担当者と面談がセットされ、石黒たちは文京区にあったJFAハウスに乗り込んだ。しかしスタジアム計画や経営に関する問題点を丁寧に説明する担当者に対して、言葉の返しようがなかったという。

「(スタジアムの収容人数をJ2の最低基準である)1万人にするのはいいけど、最初の計画はメインスタンドが1千人で、バックスタンドをものすごく大きくする計画だったんですよ。バックスタンドの巨大化は一旦白紙になったんですけど、諸室もまったく少なくて(Jリーグ側は)『ゼルビアの設計に対する考え方は甘い』という認識だったみたいですね。あと私の印象に残っているのは、経営を(当時は準会員で2011年にJ2へ昇格した)ガイナーレ鳥取と比べられて、おたくはなぜそんな悪いのか?と言われたことです」

 審査の不合格はJリーグ入りに向けたムードへ水を差し、なおかつその後の見通しを暗くする緊急事態だった。守屋は下川社長(当時)らとともに運営体制の縮小も含めたシミュレーションを行ったという。

 結果としてクラブはここでアクセルを踏み込み、大幅な増資を行った。2010年からゼネラルマネージャーとなった唐井直も加わって経営体質の改善、スタジアム計画への再チャレンジが始まった。

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著者プロフィール

1976年に神奈川県で出生し、育ちは埼玉。現在は東京都北区に在住する。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れ、世界中のスポーツと接する機会を得た。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を開始。取材対象はバスケットボールやサッカー、野球、ラグビー、ハンドボールと幅広い。2021年1月『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』を上梓。

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