38歳まで欧州でプレーした“消えた天才”の今 失意のセリエA挑戦を経て、現在は斉藤光毅のサポートに

松尾祐希

単身イタリアに渡るも、アクシデントの連続

2011年からドイツを拠点に。TuSコブレンツなどで複数のクラブに置いたが、セリエAの舞台でプレーすることは叶わなかった 【写真:getty images】

 1998年、高校2年生の夏に知り合いのツテを頼り、単身イタリアに渡った中居時夫。今思い返せば、クラブに無断で渡航するなど許される行為ではない。中学時代からお世話になっていた野地芳生にも相談したが、引き止められた。その一方で、中居の将来を見越してトリノとの間を取り持ったのも実は野地だった。中居の将来を考え、知人を紹介してくれたのである。

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 こうして幼い頃から描いていたセリエAに挑戦する権利を得ると、当時世代別代表を続々と輩出しているトリノのプリマヴェーラ(ユース世代のチーム)でアピールに成功。トップチームの練習にも参加し、プリマヴェーラの一員としてゲームに出場した際も目覚ましいプレーを見せた。

「トップチーム相手にそれなりにやれちゃったんです。結構良くて、手応えもあった。トリノの上層部にも気に入られて、すぐに来てくれと言われたんです」

 しかし、入団するためには、クリアすべきハードルがあった。中居の置かれた立場は横浜マリノスユースの所属。高校にも通っており、学校をどうするかという問題もあった。そのため、泣く泣く帰国。再び日本でプレーを続けたが、中居のサッカー人生はここから歯車が狂っていく。

「渡航を決めた時点で海外でプレーすることしか興味がなかった。もう日本に戻らない気持ちでイタリアに行ったので。しっかり結果を出せて、オファーまで勝ち取ったんですけど…」

 高校2年生の正月に古傷の左足第5中足骨を再び骨折してしまう。

「冬にもう1回トリノに行って契約を結ぶ予定だったんですけど、怪我の影響で伸びてしまった。最終的に翌年の4月まで待たないといけなくて…」

 苦しい時期を過ごしていたなかで、中居はマリノスから慰留をされた。高校2年の秋に翌シーズンからのトップチームでプレーする話が舞い込んだのだ。

「次のシーズンからプロになれたんですけど、もう全く興味なかった」

 自宅まで関係者がオファーを持ってやって来た。しかし、父親も取り合わず、中居自身の気持ちも完全に海外に向いていた。

高校中退とマリノス退団を経て、高3の春にイタリアへ

 怪我が完治した1999年の4月。「マリノスに残ろうという気持ちはなかった」。高校3年の進級を迎えたタイミングで、中居はクラブと高校を辞めてしまう。

「マリノスのユースで一緒にプレーしていた人たちは、自分の決断にみんなビビっていました。 スタッフ、監督、育成部長、みんなでイタリア行きをなんとかして止めようとしてくれてたんです。 何度も話してくれましたし。ただ、マリノスに対する自分の気持ちが完全になかったんで、聞く耳を持っていませんでした」

 中居はイタリア行きを決断。再びトリノに赴き、憧れのセリエAを目指して異国の地で勝負する選択を決めた。

 しかし、またしても想定外の出来事が起こる。自身の獲得に前向きだったトリノのスポーツディレクターが解任されたのだ。中居は所属先が決まっていない状態で単身イタリアに渡り、一から所属先を探すことになった。

「自分で自分のマネジメントをしていましたよね。今考えれば、かなり痛い決断をしていたと思いますけど」

 まさに怖いもの知らず――。リスクを背負いながら、若さ故の行動力で道を切り開くと、同年の夏に当時セリエBで戦っていたフェルマーナの目に留まった。プリマヴェーラの合宿に参加して入団を勝ち取るまでは良かったが、外国人枠の壁に当たってしまう。

 当時、セリエBは2人しか外国人枠がない。しかも、プリマヴェーラを含めての登録枠。無事に契約を果たしたと思ったのも束の間、開幕直後にまさかの事態に遭遇する。

「トップチームがコッパ・イタリアで連敗してしまい、チームがクロアチア人選手を獲得したんです」

 トップチームが結果を残せなかった関係で外国人枠を有効に使うべく、実績を持たない18歳の日本人が弾き出された。

 であれば外国人枠がないセリエC2ならという想いで、カテゴリーを変えて活躍の場を探した。ポンテデーラというクラブでプリマヴェーラ所属のままトップチームの練習に参加。ポンテデーラと協力関係にある5部リーグのポンテサッコの公式戦に出場する機会を得て、異国の地でチャンスを待った。

挫折と苦悩の20代。セリエA挑戦失敗を経て日本で過ごした暗黒の6年間

 主戦場の5部リーグは物足りなさを感じたが、セリエCのトップチームでトレーニングは充実感に溢れていた。

「たくさん良い選手がいたので、めちゃくちゃ学ぶことだらけ。本当にいい環境で、練習からレベルがすごく高くて楽しかった。レベルが全然違う」

 また、2000年の2月には同世代の仲間たちとイタリア最大級のプリマヴェーラの大会であるトルネオ・ディ・ヴィアレッジョに出場した経験も、中居にとって大きかった。ポンテデーラの一員としてプレーし、後にイタリア代表で10番を背負うアントニオ・カッサーノがいるバーリと対戦。自らゴールを決め、イタリアの全国紙であるガゼッタ・デッロ・スポルトにも取り上げられたという。

「当時からカッサーノは凄かった。試合で彼がゴールを決めたけど、僕も1点決めて。確か、3-4で負けたと思うんですけど、紙面ではカッサーノと同じぐらいの評価をしてもらえたんです」

 この活躍により、当時セリエBのナポリが獲得候補にリストアップ。セリエAに昇格したため話はたち消えになったが、着実に憧れの舞台に近付いていた。

 2000年の夏からはプロ・ヴァストで研鑽を積み、01-02シーズンにはチームのセリエD昇格を経験する。そして、2002年。ACミランと同じ地域に本拠地を置くセリエC2のプロ・セストのテストを受け、念願のプロ契約を結んだ。元イタリア代表のステファノ・エラーニオらがコーチなどにおり、ACミランの関係者も多いクラブでついにプロサッカー選手の第一歩を踏み出したのだ。

 しかし、またしても壁に当たる。開幕3週間前を控えたタイミングで、セリエC2の外国人選手枠が撤廃されたのだ。

 いつものカフェで朝食を食べている時だった。目を疑うようなニュースに対し、中居は慌ててクラブの事務所に駆け込んだ。話を聞いても事実は変わらず、クラブ関係者の言葉もあっさりしていた。

「外国人枠がなくなった。ごめんな」

 この出来事で契約が吹き飛んだ。

「2年契約を結んでいたんですけど、無効にされてしまったんですよ」

 一転して無所属となった中居に、もう一度這い上がる気力は残っていなかった。

「心が折れてしまった。鬱病みたいになっていましたね。お世話になった人たちにも、申し訳ないですけど、もう日本帰りますって話して…」

 セリエCやDのチームから話はあったが、全ての誘いを断って日本へ帰国。2002年の夏に一つのサイクルが終わった。

 日本に戻ってからの1、2ヶ月は家に引き篭もったという。「1ヶ月か2ヶ月弱ぐらいはどこにも出かけなかった。ずっと部屋にいましたね」。やる気が起きず、無気力な状態が続いた。それでも中居は徐々に立ち直り、再びボールを蹴るために動き出す。

「なんとかどん底の状態から抜け出して、お世話になっていた人たちに頼って、代理人事務所の人に初めてお願いをしたんです。Jリーグのチーム紹介してくれて。でも、最初はマリノスでという想いがあったし、マリノス側もこんな状態で外に出ていったのに気にかけてくれていたので戻りたいという気持ちがあった。マリノスに育ててもらったので、いろんなチームがあったけど、古巣に入りたいという想いでテストを受けにいったんです」

 すると、当時チームディレクターを務め、02年の途中に監督を務めていた下條佳明氏(現・松本山雅テクニカルダイレクター)から来季から1年間だけ契約を結ぶというオファーを貰った。だが、来季の体制が固まり、新監督に岡田武史氏が内定したことで話が無くなってしまう。

 2週間ほど練習参加をして岡田氏に見てもらったが、イタリアを去ってからほとんど身体を動かしていなかった選手がプロの世界で結果を残せるわけがない。追加で1週間ほどさらにテスト期間を伸ばしてもらっても、自身と同世代であるU-21日本代表との練習試合で何もできなかった。かつて世代別代表で凌ぎを削った阿部勇樹や茂庭照幸(元FC東京ほか)らに封じられてしまったのだ。

「もう俺は終わったなって思いました。自分のプレーが全くできなかったので」

 その後、東京Vや湘南ベルマーレのトレーニングに参加したが、結果は不合格。ヴァンフォーレ甲府や柏レイソルには1日で見切られ、かつて名を馳せたレフティは途方に暮れた。

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著者プロフィール

1987年、福岡県生まれ。幼稚園から中学までサッカー部に所属。その後、高校サッカーの名門東福岡高校へ進学するも、高校時代は書道部に在籍する。大学時代はADとしてラジオ局のアルバイトに勤しむ。卒業後はサッカー専門誌『エルゴラッソ』のジェフ千葉担当や『サッカーダイジェスト』の編集部に籍を置き、2019年6月からフリーランスに。現在は育成年代や世代別代表を中心に取材を続けている。

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