女子ボクシングのニューヒロイン・晝田瑞希インタビュー 「革命を起こす」ために挑戦したロサンゼルス合宿

船橋真二郎

WBO女子世界スーパーフライ級王者の晝田瑞希(三迫) 【写真:本人提供】

ベルトは世界に羽ばたくための切符

 27回目の誕生日を迎えた今年4月12日。晝田瑞希(ひるた・みずき/三迫)は「冒険」の旅に出た。行く先はアメリカ・ロサンゼルス。元世界ヘビー級3団体統一王者のアンディ・ルイス・ジュニア(アメリカ)、元WBC世界スーパーフェザー級・WBO世界フェザー級、2階級制覇のオスカル・バルデス(メキシコ)らを手がけたマニー・ロブレス・トレーナーが主宰する「Legendz Boxing Gym」のチームに加わり、トレーニングを3週間ともにした。

 2022年は躍進の1年だった。12月1日、プロ4戦目でWBO女子世界スーパーフライ級王座を奪取。元極真空手の世界選手権覇者で、キックボクシングでも活躍した谷山佳菜子(ワタナベ)を寄せつけなかった。7ラウンドに左から返した右フックでダウンを奪い、大差の判定で下した王座決定戦は女子年間最高試合賞に選出され、年間MVPとのダブル受賞を果たした。

【写真:本人提供】

 鮮やかなピンクに髪を染め、ピンクを基調としたコスチュームに身を包み、華やかにリングに登場するサウスポーのニューヒロインは、「運命」と表現したピンクのベルトを「世界に羽ばたくための切符」と言い換える。6月13日、東京・後楽園ホールにWBO女子世界スーパーフライ級1位のケーシー・モートン(アメリカ)を迎える初防衛戦は、その第一歩になる。

 ハワイ出身で日本人の母を持つ挑戦者は4年前に来日。晝田と元同門の吉田実代(EBISU K’s BOX=当時)と同王座を争い、大差をつけられる判定で敗れている。前回の来日時、モートンは孤児院で育った生い立ちを明かした上で「怒り、悲しみといった感情をボクシングが情熱に昇華してくれた」と語っていた。昨年6月には、フランス・パリでマイナー団体(IBO)の世界王座を争った(判定負け)。39歳になった今も情熱を燃やし続けているに違いない。

 そのモートンに対し、晝田が掲げるのが「6回KO勝ち」。プロ初のKO勝利は、ロサンゼルスでトレーナーと交わした約束であり、晝田のポテンシャルに対する期待の表れでもあるだろう。2階級(フライ級、フェザー級)でアマチュア全日本女子選手権を制した実績を引っさげ、プロ転向。4戦全勝2KOの山家七恵(中野サイトウ=当時)を1ラウンドに倒した末、フルマークの判定で退けた2021年10月のデビュー戦からスケールの大きさを感じさせた。

 鮮烈な船出を飾った晝田は、東京五輪アジア・オセアニア予選の日本代表を争ったライバルであり、本大会では女子史上初となる金メダルを獲得した入江聖奈がリングサイドで見守る前で、こう宣言していた。

「女子のアマチュアに入江選手が革命を起こしたと思うんですけど、プロの舞台では、私が革命を起こしたと言われるぐらい頑張りたいなって思ってます」

 今、晝田がまっすぐ見据えているのは、海外の大舞台。国内の枠にとどまらないグローバルな活躍が期待される女子ボクシングの新たな旗手に、ロサンゼルスで感じたこと、思い描く未来について聞いた。(前後編の前編/5月16日取材)

「この2年、私は何をやった?」

晝田(左)は昨年12月1日、谷山佳菜子(右)を判定で下し、プロ4戦目で世界王座を奪取 【写真は共同】

――5月上旬までロサンゼルス合宿に。

 はい。4月12日、私の誕生日に出発して、5月2日に帰国するまで3週間ですね。

――誕生日に出発すると決めていた。

 そうですね。生まれ変わりたいというか、今年はやるぞ! っていう思いも込めて、私の27歳の誕生日に。みんなからしたら、そんな大した挑戦じゃないかもしれないけど、私の中では冒険というか(笑)。区切りのいい日に出発してみようかなって。

――アメリカは初めて?

 昔、アマチュアの合宿で1回だけ。コロラドに高地トレーニングができる、日本で言えばNTC(ナショナルトレーニングセンター)みたいな施設があるんですよ(コロラドスプリングス・オリンピックトレーニングセンター)。そこにチームで行ったことはあったんですけど、なんせ、チケットを取るところから、何もしなくてもアメリカに行けて、トレーニングをして、気づけば日本に帰ってきてるみたいな環境だったんで。不安も何もなく(笑)。

――現地でコーディネートしてくださる方がいるとはいえ、今回は冒険ということですね(笑)。

 そうですね(笑)。私はプロになるとき、革命を起こすって言ったんですよ。

――デビュー戦のとき、入江さんの前で、プロで革命を起こすと宣言しましたね。

 けど、この2年、私は何をやった? 口ばっかりだったかな? って、そういう自問自答を繰り返してはいて。実際、毎日毎日、目の前の一つひとつをこなしていくのに必死で、結局、なんで私がプロになったのか、当時は心にあったことを忘れかけてた部分もあったなと思って。もちろん、この2年がムダだったとは1ミリも思ってないし、一生懸命頑張ってきたんですけど、プロになった大元の部分を思ったとき、あ、このペースでやってたら、私は革命を起こせない。もっと具体的に、どうすれば革命を起こせるのかを探しに行きたいというか、行動に移したいと思ったのがきっかけでした。このベルトは私が世界に羽ばたくための切符だと思ってるし、その切符をムダにはしたくないから、今回、アメリカに挑戦したのもあります。

――これまで何度も話してくれましたけど、プロになった大元の部分というのをあらためて言葉にすると?

 うーん……。やっぱり、悔しい思いがいちばん大きかったと思うし、それは今でもずっと変わってないですね。私はオリンピックを諦めて、ターゲットをプロに変えたっていう言い方をして、そうやって自分でポジティブに納得したつもりでいたんですけど、根本には悔しさがあるというか、自分の力を証明したい気持ちがあって……。それは別にアマチュアでもできたと思うんですよ。でも、アマチュアの世界では正直、恵まれなかったことがいっぱいあったし、それでも私はやれるって、自分の力を証明できるのはプロの世界だなと思って。

――証明というのは、以前も話してくれたように、自分がやってきたことは間違いじゃなかったということを自分に対しても、応援してくれた方に対しても証明したいということですよね。

 そこは変わらないですね。私がオリンピックに行けなかったとき、「夢を見させてくれて、ありがとう」と言ってくださった方がいたんですよ。(入江に)負けて、すぐ電話をしたときに。その言葉が今でも忘れられないんです。で、私も当時、テレビでやってたオリンピックの映像をずっと見れなかったんですけど、お父さんも、お母さんも「見れんかったわ」って。あ、悔しいのは自分だけじゃなかったんだ、私と一緒に夢を追いかけてくれてた人がいたんだということをすごく感じて。

――自分の悔しさは、自分だけの悔しさじゃなかった。

 そう。もう1回、また一緒に夢を見て、今度は夢を叶える幸せを届けたいなと思ったし、私を応援してきて良かったなと思ってほしいですね。

――ここから世界に羽ばたくことが、プロで革命を起こすということ。

 そうですね。もちろん、オリンピックに出れなかったことは、一生悔しいと思うし、一生消えないと思うんですよ。でも、ボクシングをやってきて良かったなと思いたい。そう思えたら幸せだろうなと思うし、自分の人生でいちばん楽しい時期にずっとボクシングをやってきて、私がいちばん頑張ってきたことだから。

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著者プロフィール

1973年生まれ。東京都出身。『ボクシング・ビート』(フィットネススポーツ)、『ボクシング・マガジン』(ベースボールマガジン社=2022年7月休刊)など、ボクシングを取材し、執筆。文藝春秋Number第13回スポーツノンフィクション新人賞最終候補(2005年)。東日本ボクシング協会が選出する月間賞の選考委員も務める。

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