連載:我がマリノスに優るあらめや 横浜F・マリノス30年の物語

マリノス一筋18年の栗原勇蔵 「感謝」と「使命」を胸に刻み次のステップへ

二宮寿朗
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2010年からは背番号「4」で定着 【(C)J.LEAGUE】

 レギュラーを張ったと言えるのが、22歳だった2006年からである。松田、中澤を従えて栗原が3バックの中央に君臨する。そのパフォーマンスを評価され、8月にはオシムジャパンにも追加招集され、トリニダード・トバゴ戦でA代表デビューを飾った。

 ただチーム自体はスタートこそ開幕4連勝を飾ったものの、それ以降は低空飛行が続いていた。そして8月23日、三ツ沢公園球技場で大宮アルディージャ戦に敗れたことで岡田はチームを離れることになる。
「岡田さんは自分を引き上げてくれた人だから感謝しています。でも当時はショックとかというよりも、毎試合、自分のパフォーマンスを出さなくちゃいけないし、試合も続いていくし、ほかのことを考える余裕なんてなかった。もっと経験を積んでいれば、少しはまわりを見ることができたかもしれないけど、そのころの自分にはまだ難しかった」

 プロ5年目にしてやっとつかんだチャンス。自分のことしか見えない、イコール、自分と真剣に向き合っているという証左でもあった。本気モードになったら手がつけられない。類い稀な身体能力を誇るハマの番長は、その才を一気に花開かせていった。

 松田、中澤は追いかける対象からライバルへと変わりつつあった。試合を重ねていくことで経験値を積み上げ、まわりを見ることもできるようになる。背番号も2010年からは井原正巳、波戸がつけていた「4」で定着し、堅守F・マリノスの象徴ともなっていく。

「自分のキャリアのなかでモチベーションも、パフォーマンスも噛み合っていたのが、あの2013年だったと思います。日本代表に行くにしても、優勝争いしていたから気持ちは乗っていた。それにやっぱり優勝したかった。2003、2004年に連覇しているといっても、自分は試合に絡めていないんで。ちゃんと主力メンバーとして出たうえで優勝というものを成し遂げたかった」

リーグ制覇のチャンスを逃した2013年

中澤佑二とのコンビは「高さ」で相手を圧倒していた 【(C)J.LEAGUE】

 中澤とのコンビは、どこが相手であっても制空権を渡したことがなかった。あえて相手にボールを放り込ませては回収する鉄壁のディフェンス。どこが相手だろうが、誰が相手だろうが、やられる気はしなかった。
 
 しかしながら、勝てば優勝という11月30日のアルビレックス新潟戦で0-2と敗れてしまう。相手コーナーキックに対して栗原はヘディングでクリアしきれず、不運にも、そのボールが川又堅碁に渡って先制点を献上した。

「今でも思い出すと悔しいですよ。ただ、あのときの新潟は本当に強かった。必死にやったなかでの完敗でした。満員の日産スタジアムで優勝を決められたら完璧だったのに、それが出来なかったことで、うまく切り替えられなかったところは正直あったと思います」
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著者プロフィール

1972年、愛媛県生まれ。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社し、格闘技 、ラグビー、ボクシング、サッカーなどを担当。退社後、文藝春秋「Number」の編集者を経て独立。 様々な現場取材で培った観察眼と対象に迫る確かな筆致には定評がある。著書に「 松田直樹を忘れない」(三栄書房)、「中村俊輔 サッカー覚書」(文藝春秋、共著)「 鉄人の思考法〜1980年生まれ、戦い続けるアスリート」(集英社)など。スポーツサイト「SPOAL(スポール)」編集長。

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