川崎F・谷口彰悟が語る災害の恐ろしさ「自分たちが得た教訓を後世に残したい」
熊本地震で実家が被災したこともあって、高い防災意識を持つ谷口彰悟。水や食料など、最低限の防災グッズは揃えるようにしているという 【YOJI-GEN】
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2016年の熊本地震で実家が半壊
僕は川崎にいたので実際に見てはいないのですが、家の壁がひび割れ、食器などがすべて床に落ち、足の踏み場もない状態だったと両親から聞き、写真も見せてもらいました。全壊ではなく半壊という認定ですが、家には住めなくなりました。両親と祖母は車中泊を経て、2~3週間の避難所生活を強いられましたが、幸い早いうちにアパートが見つかったので、住まいを移しました。その後、実家は建て直しました。
――ご両親とは地震後、すぐに連絡が取れましたか。
地震の直後は家族がどうなったのか心配しましたが、すぐに連絡がついたので安心しました。どんな生活をしているのか、困ったことはないか、連日、連絡を取り合いました。熊本にはシーズン終了後の年末まで帰ることができませんでしたね。
――被災後、ご両親は防災について、どのような話をされましたか。
災害はいつ来るか分からないし、何が起こるか分からない。家族がバラバラの時に災害が起きるかもしれない。そうなると、すぐに連絡が取れず、誰がどこにいるのか分からない可能性がある。直後はパニックになるだろうから、家族の集合場所を決めておいた方がいい。もちろん水や食料を備蓄し、ラジオや懐中電灯なども揃えておかなくてはならない。被災経験をもとに、両親はそう話していました。僕自身も最低限の水や食料をストックし、防災グッズを揃えるようにしました。
ここは日本なのかと思うくらいのショックを
2016年の熊本地震の際にも、川崎Fの一員として支援活動に参加。実家が半壊した谷口は「災害はいつ来るか分からない」ことをあらためて実感した 【Getty Images】
筑波大時代の2011年3月に起こった東日本大震災で、生活に影響を受けました。つくば市も震度6弱の揺れで電気、ガス、水道が2日間、ストップしました。コンビニに行っても商品がなくなっていて、事前に備蓄をしていなかったので食べるものに困りました。ちょうどその日は寮からアパートへの引っ越しの日でした。荷物を運ぶことはできましたが、電気が点かず、身をもって災害の怖さを知りました。
――筑波大サッカー部の活動も震災の影響を受けましたか。
大学の施設も被害を受け、サッカー部のグラウンドは使えなくなりました。しばらくの間は、風間八宏監督(当時)のツテで借りた静岡県内のグラウンドで練習をしました。
――川崎フロンターレは東日本大震災で被災した陸前高田市(岩手)での支援活動、交流を重ねています。現地に初めて足を運んだのは、フロンターレに加入した2014年ですか。
そうです。震災から3年が経っていましたが、かつての街に建物はまったくありませんでした。山を削った土を運ぶ、ものすごく大きなベルトコンベアーが張り巡らしてあって、大規模な土地の嵩上げが行われていました。
――その時、感じたことは?
ここは日本なのだろうか、と思うくらいの大きなショックを受けました。何と言ったらいいのか、その時の感情は言葉で表せません。震災遺構の建物で、この高さまで津波が届いたという話を聞いて、その規模の大きさを知りました。