連載:甲子園レジェンド名将対談

渡辺元智と前田三夫が高校野球の未来を考える 「“稲葉野球”は高校野球の教科書」

瀬川ふみ子
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「高校野球の未来」をテーマにした対談では、渡辺・前田両氏から“野球愛”を感じさせる言葉が飛び交った 【撮影:白石永(スリーライト)】

 野球人口の減少が危惧される昨今。50年間、高校球児と真摯(しんし)に向き合い、指導にあたった横浜・渡辺元智元監督と帝京・前田三夫元監督も警鐘を鳴らしている。幾多の修羅場を乗り越え、数々の成功を収め、高校野球界の発展に貢献してきた稀代(きたい)の名将だからこそ示す道筋とは。高校野球界が歩むべき未来を考えていきたい。(取材日:6月30日)

「歴史を知って、野球と向き合ってほしい」

渡辺 私は今77歳、前田さんも73歳ですか。お互い“シニア”ですよ。若い人の考えも理解していかなきゃいけない。でも、シニアの二人が対談する機会をいただいたわけですから、昔の話も伝えていきたいです。

 今日まで野球がこれだけ日本のみんなに愛され、応援されてきたか、元をたどれば1940年代、戦中戦後にいきつきます。戦後、日本が敗戦から立ち直っていく中で、生きる勇気を与え、日本人を救ったのは私は野球だと思っています。美空ひばりの歌も力を与えてくれましたし、プロレスの力道山も同じくです。苦しい生活の中、見る者みんなが一投一打に勇気と希望をもらっていました。私もその一人。父が戦地から帰ってきた後、母方の家に引き取られ、寂しかったあの頃、心を癒やし、希望を持たせてくれたのも野球でした。野球に救われて今日があります。野球をやっていて本当に良かったなって今でも思います。

 その陰で、戦前、スター選手として活躍していた選手たちが、学徒出陣で召集され、帰らぬ人となっていることを知っておいてほしいんです。東京ドームの21番ゲートの近くに“鎮魂の碑”というものがあります。私も実際に見学して、その思いは靖国神社の小冊子(靖国)に掲載してもらっています。これは、日本の野球草創期に活躍しながら、戦争に散華した選手たちの霊を慰めるために建立されたもの。そこには石丸進一、沢村栄治、村松長太郎、景浦将……など76名の名前があり、鎮魂の副碑にはこんなことが刻まれています。

追憶
弟進一は名古屋軍の投手。昭和十八年20勝し、東西対抗にも選ばれた。召集は十二月一日佐世保海兵団。十九年航空少尉。神風特別攻撃隊、鹿屋神雷隊に配属された。二十年五月十一日正午出撃命令を受けた進一は、白球とグラブを手に戦友と投球。「よし、ストライク10本」そこで、ボールとグラブと“敢闘”と書いた鉢巻を友の手に託して機上の人となった。愛機はそのまま、南に敵艦を求めて飛び去った。「野球がやれたことは幸福であった。忠と孝を貫いた一生であった。二十四歳で死んでも悔いはない。」ボールと共に届けられた遺書にはそうあった。真っ白いボールでキャッチボールをしている時、進一の胸の中には、生もなく死もなかった。
遺族代表 石丸藤吉
(野球殿堂博物館、常設展示「戦没野球人モニュメント・鎮魂の碑」より)

渡辺 戦争は絶対反対です。涙が出ますよ。彼らは戦死していなければスーパースターとして野球をしていたわけです。でも国のために戦い、散っていった。命をかけた彼らがいるから今日の日本があり、野球もできている。そういう歴史も知った上で、もう一回野球と向き合ってほしいという思いがありますね。
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