連載:高校野球で生き続ける野村克也の教え

シダックス最後の監督が野村克也に出会うまで 「なぜ社会人は…」名将が尋ねた素朴な疑問

加藤弘士(スポーツ報知)

【写真:加藤弘士】

 JR立川駅からタクシーで10分。閑静な住宅街の中に、昭和第一学園のキャンパスはある。野球部の練習場はサッカー部やラグビー部などと併用で、やや手狭だ。だが日が暮れた後も、ナインは活力みなぎる表情で鍛錬に取り組む。


 監督の田中善則は汗を流す選手たちを眺めながら、恩人へと思いを馳せた。

「野村監督が亡くなられた日のことは、忘れられません。一報を聞いて、ご自宅に飛んで行ったんです。心がつらい中で、対面させていただきました。プロ野球のユニホームと一緒に、シダックスのユニホームが置かれているのを見た瞬間、涙があふれて……止まりませんでした」


 シダックスに在籍した男たちは、口を揃えてこう話す。
「シダックスは上下関係が厳しくなく、雰囲気のいいチームだった。やるときはやる。それ以外は楽しく。オンオフの切り替えができる大人の集団だった」

 そして、必ず続けるのだ。


「風通しのいい空気で野球が出来たのは、善さんのおかげだ」

「善さん」と呼ばれて慕われた田中は、野村の後任監督を務め、シダックス最後の指揮官にもなった。


「殿」と書いて「しんがり」と読む。戦においては最も難しい任務とされ、人間的にも戦術的にも優れた武将が担う重責だった。

 なぜ田中は野村から「殿」を託されたのか。


 田中はアマ球界のスター選手だった。1967年10月1日、東京生まれ。法政一高では2年時の84年、春夏甲子園に出場し、法政大では3度のベストナインに輝いた。卒業後は北海道拓殖銀行(拓銀、92年からチーム名を「たくぎん」に改称)に進んだ。当時の法大監督・竹内昭文は拓銀監督を務めた後、3年間の出向という形で母校を指導していたが、社業に戻るタイミングで田中を誘った。


「どうだと。その時は僕、拓銀1社しか聞かされていなくて、『いいですよ』と答えたんですが、後から聞いたら14社がオファーして下さっていたらしいです。でも竹内さんに育ててもらい、使ってもらったので」


 90年4月入社。バブル崩壊は翌年のことだ。都銀は活気にあふれ、野球部もまた道内で羨望の眼差しを受けていた。


「当時は北海道にプロ野球がなかったんで、マネジャーが『拓銀はジャイアンツみたいなもんなんだよ』って言ってました。拓銀のバッジを着けて歩けばツケも効く。そんな時代でした。寮からタクシーに乗ると、運転手が言うんですよ。『お兄ちゃん、いい会社に入ったな。北海道で、さん付けされる会社は、北電(北海道電力)さんと拓銀さんしかないんだよ』って」

 午前中は札幌市内の支店に勤務。午後から練習が始まる。野球選手である前に銀行マンであることを求められた。躾(しつけ)は厳しかった。髪は七三分けに。真ん中分けはNG。その分、都市対抗に出場すると社内はお祭り騒ぎになった。


「入社1年目に北海道の第1代表になったんですよ。銀行中がお祝いしてくれて。祝勝会ではすすきので一晩中、3軒ハシゴして、お寿司屋さんでは『好きなだけ食っていいぞ。周りのお客さんにもご馳走してやれ』と。都市対抗に出ることは、凄いことなんだなって」

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著者プロフィール

1974年4月7日、茨城県水戸市生まれ。水戸一高、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、1997年に報知新聞社入社。2003年からアマチュア野球担当としてシダックス監督時代の野村克也氏を取材。2009年にはプロ野球楽天担当として再度、野村氏を取材。その後、アマチュア野球キャップ、巨人、西武などの担当記者、野球デスクを経て、2022年3月現在はスポーツ報知デジタル編集デスク。スポーツ報知公式YouTube「報知プロ野球チャンネル」のメインMCも務める。

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