シダックス最後の監督が野村克也に出会うまで 「なぜ社会人は…」名将が尋ねた素朴な疑問
【写真:加藤弘士】
監督の田中善則は汗を流す選手たちを眺めながら、恩人へと思いを馳せた。
「野村監督が亡くなられた日のことは、忘れられません。一報を聞いて、ご自宅に飛んで行ったんです。心がつらい中で、対面させていただきました。プロ野球のユニホームと一緒に、シダックスのユニホームが置かれているのを見た瞬間、涙があふれて……止まりませんでした」
シダックスに在籍した男たちは、口を揃えてこう話す。
「シダックスは上下関係が厳しくなく、雰囲気のいいチームだった。やるときはやる。それ以外は楽しく。オンオフの切り替えができる大人の集団だった」
そして、必ず続けるのだ。
「風通しのいい空気で野球が出来たのは、善さんのおかげだ」
「善さん」と呼ばれて慕われた田中は、野村の後任監督を務め、シダックス最後の指揮官にもなった。
「殿」と書いて「しんがり」と読む。戦においては最も難しい任務とされ、人間的にも戦術的にも優れた武将が担う重責だった。
なぜ田中は野村から「殿」を託されたのか。
田中はアマ球界のスター選手だった。1967年10月1日、東京生まれ。法政一高では2年時の84年、春夏甲子園に出場し、法政大では3度のベストナインに輝いた。卒業後は北海道拓殖銀行(拓銀、92年からチーム名を「たくぎん」に改称)に進んだ。当時の法大監督・竹内昭文は拓銀監督を務めた後、3年間の出向という形で母校を指導していたが、社業に戻るタイミングで田中を誘った。
「どうだと。その時は僕、拓銀1社しか聞かされていなくて、『いいですよ』と答えたんですが、後から聞いたら14社がオファーして下さっていたらしいです。でも竹内さんに育ててもらい、使ってもらったので」
90年4月入社。バブル崩壊は翌年のことだ。都銀は活気にあふれ、野球部もまた道内で羨望の眼差しを受けていた。
「当時は北海道にプロ野球がなかったんで、マネジャーが『拓銀はジャイアンツみたいなもんなんだよ』って言ってました。拓銀のバッジを着けて歩けばツケも効く。そんな時代でした。寮からタクシーに乗ると、運転手が言うんですよ。『お兄ちゃん、いい会社に入ったな。北海道で、さん付けされる会社は、北電(北海道電力)さんと拓銀さんしかないんだよ』って」
午前中は札幌市内の支店に勤務。午後から練習が始まる。野球選手である前に銀行マンであることを求められた。躾(しつけ)は厳しかった。髪は七三分けに。真ん中分けはNG。その分、都市対抗に出場すると社内はお祭り騒ぎになった。
「入社1年目に北海道の第1代表になったんですよ。銀行中がお祝いしてくれて。祝勝会ではすすきので一晩中、3軒ハシゴして、お寿司屋さんでは『好きなだけ食っていいぞ。周りのお客さんにもご馳走してやれ』と。都市対抗に出ることは、凄いことなんだなって」