シダックス最後の監督が野村克也に出会うまで 「なぜ社会人は…」名将が尋ねた素朴な疑問
【写真:加藤弘士】
「プロでは野村ヤクルトがID野球で新時代を築いているのに、こっちは『精神強化合宿』とか根性論で満足している。違う野球があることに気付いていた僕は、野村さんの本を読みまくっていました。データとか相手の癖を見抜くとか、頭を使う野球を追求し、とにかくチームで勝つ野球を体現したかった。日本一になりたかったんです」
野球部を辞めます――。
28歳の4番打者が突然の退部表明。同時に法大の後輩でもある26歳のエース左腕・萩原康も退部を申し入れた。萩原は環境の変化を望んでいた。投打の軸が一気にいなくなる。会社は慌てた。二人を強く慰留した。
95年11月15日、日刊スポーツ北海道版はこの騒動をトップ記事でスクープしている。
「たくぎん萩原引退 主砲の田中も」
だが、それを上回る衝撃の一報は9日後に届いた。
「たくぎん全運動部休部 9700億円の不良債権償却 リストラの一環」
休部はあくまで表向き。事実上の廃部だ。
青天の霹靂だった。
現場は何も知らされていない。一部経営陣だけで進められていた、極秘の再建策だった。
ここで動いたのが軟式から硬式に移行して3年目の新鋭・シダックスだ。実績も十分の元監督・竹内と田中、萩原をセットで獲得する荒業に出た。結論から言えば、この前代未聞の移籍は成功し、チームに変革をもたらした。田中は翌97年、主将に就任すると、たくぎんで学んだ「飲みニケーション」でチームをまとめた。温厚な萩原は投手陣の精神的支柱になった。
田中は回想する。
「ユニホームが赤いだけで、中身は何色にも染まってない若いチーム。お互いを知るという意味で、事あるごとに飲み会をしてました。野球が上手い下手は関係ない。今日は調布駅前のつぼ八に集合だ、年長者は多く払って、若い奴は1000円でいい。パチンコで勝った奴は多めに払えよ、みたいな。野球はしっかりグラウンドでやろう。後はみんなで仲良くやろうと。当時の監督はキューバ人のウルキオラで『野球部はファミリーだ。互いにリスペクトしよう。何でも相談してくれ』というマインドだったんです。それも良かった」
97年都市対抗8強、98年同4強。
そして99年日本選手権優勝――。
決勝の松下電器戦では4番・田中が2打席連続弾。萩原は先発し、勝利投手となった。
日本一になりたい――。
田中の思いが結実した。
だがその後の2001、02年とチームは都市対抗出場を逃し、田中も現役を引退する。
立て直しにやってきたのは、田中がかつて著書を熟読し、憧れた野村克也だった。
新米コーチだった田中は、野村と選手の間に立って奔走した。ミーティングでは野村の話を必死にメモし、ノートに清書しては何度も読み返した。
野村の就任間もない頃、練習中に聞かれた。
「このバッターは打つのか?」
「ハイ。ウチの中では勝負強い打者です」
「うーん。一点だけ気になるところがあるんだよなあ」
田中は言う。
「『固定観念は悪、先入観は罪』とミーティングでもおっしゃっていましたが、野村監督は決めつけないんです。まずフラットな状態で、自分の目でしっかりと観察する。その上で判断する。だから選手はやる気になった。それが勝ち出した理由の一つです」
素朴な疑問を投げかけられたこともある。
「田中、何で社会人の選手は、30代になると下り坂になって引退するんや? プロならまだまだ稼ぎ時じゃないか」
45歳まで現役を続けた男ならではの問いだった。
「プロに行けなかった選手は、家庭もありますし、同世代が仕事を覚えて出世しているのを見ながら野球をやっているんです。辞めた途端にイチから仕事を覚えるとなると、葛藤もあります。ならば少しでも早く社業に就くという考え方も、あるにはあるんです」
野村はうなずきながら、こう返した。
「好きな野球をやっているんだから、経験をそんな簡単に捨てるな! 俺ならしがみついて、1年でも長くって思うんだけどな」
自らが歩んできた人生を、誇らしく思う言葉に聞こえた。