連載:高校野球で生き続ける野村克也の教え

シダックス最後の監督が野村克也に出会うまで 「なぜ社会人は…」名将が尋ねた素朴な疑問

加藤弘士(スポーツ報知)
 05年、野村が就任3年目の秋のことだ。ジャイアンツ球場室内練習場での練習を終えると、田中は野村に呼ばれた。

「お前、いくつになった?」

「38です」

「若いな」

「若いです」

「お前、監督やれ。俺は楽天に行く。次の監督はお前がいい。お前なら『ノムラの考え』を継いでくれるから、選手もやりやすい。考えを継承してくれるのは、俺も嬉しいから」

 野村は田中が必死に野村の野球理論を学習し、実践していることをよく見ていた。選手から人望が厚いことも把握していた。


 一日考えた。翌日に「正直、監督が辞める時は自分も辞めると覚悟していましたが、迷いは振り切りました。引き受けます。自分で良ければ精いっぱいやらせていただきます」と返事をした。野村は安堵の表情を浮かべた。


 光栄だったが、そこからは苦行だった。


 野村がシダックスのオーナー・志太勤(しだ・つとむ)に直談判したこともあり、廃部こそ免れたが、規模縮小は避けられなかった。31人のスタッフを26人に減らした。

「クビ切らなきゃいけなかったんで、相当恨まれたと思いますよ」


 06年、野村抜きのシダックスがスタートした。3月の東京スポニチ大会では準優勝して意地を見せたが、都市対抗は予選で敗退した。そして8月終わり、志太から告げられた。

「今年いっぱいで野球部は辞めようと思う」

 覚悟はしていた。「発表は9月6日以降にしましょう」と志太に伝えた。都市対抗決勝が9月5日。社会人最高峰の戦いに水を差し、紙面を奪ってはならないという配慮だった。


 9月6日、関東村のグラウンドで志太はナインに解散を発表した。涙を流す者もいた。しかし監督である田中は、泣いている暇も落ち込む権利も有していなかった。

 選手の中で引退を表明したのは25人中、2人。後は現役続行を希望していた。

 田中はナインの再就職へ心血を注いだ。社会人野球の選手名鑑を熟読し、各チームの強化ポイントを把握するとともに引退選手を予想。最適な選手を売り込んだ。「見たい」と言われれば、日本全国どこへでも連れて行き、頭を下げた。


 眠れない夜が続いた。ふと、たくぎん時代に仕えた指揮官のことを思い出した。

 俺が辞めるって言って、休部が決まった時も、こんなつらい思いをしていたのかな――。

 何とか23人全員の新天地が決まった。自身の元にも大学2校、高校2校から監督のオファーが届いた。だが断った。

「選手寮の片付けが終わらずに、途中だったんです。パネルも賞状もトロフィーの数々も置き去りのままで、自分たちの存在がどんどん消えていく……そんな気持ちを味わいましたが、片付けは止められませんでした。途中でほったらかし、次の仕事に行くことは抵抗があったんです。途中で丸投げしたら、志太さんに申し訳が立たない。僕はシダックスがあったから、輝かせてもらった。それに、野村さんを最後の監督にさせるわけにはいかなかった。チームを畳むのは、本当に大変ですから。ある意味、最後の監督が僕で良かったと思うんです」


 愛しき日々である野村シダックスの3年間。一つだけ後悔がある。あの間、選手は社業を免除されていた。野村の指導の下で野球に専念し、とにかく勝てとの方針だった。


 たくぎん時代に社業にも取り組んできた田中の見解は、少しだけ違う。

「極端な話、カラオケ店のお皿洗いでもよかった。会社ってこうやってお客さんからお金をいただいて、その一部が僕らの活動費になっていると実感できれば、明らかに野球が変わってくる。社会人野球とはそういうもの。仕事しながらの人生経験はエネルギーとなり、苦しいときの一打や一球につながる。無形の力になるんです。それがウチには足りなかったのかもしれませんね」


 田中は09年、シダックスを去った。一般企業の営業職に就く傍ら、11年にはタイ代表のヘッドコーチを担った。そして、14年夏の新チームから昭和第一学園の監督を務めることになった。


 部員たちには「ノムラの考え」を特集した新聞記事などのプリントを配り、熟読した上で感想を記すことを求めている。技術論だけでなくリーダー論、組織論、あるいは人としていかに生きるべきかなど、当時のミーティングで自身が瞳を輝かせ、学んだ内容ばかりだ。

「野村監督は『漫画でもいいから本を読め』『活字に触れろ』と、そこには厳しかったんです。今はスマホでちょちょいと調べて終わっちゃう時代。でも、読んで、考えて。『こんな考えもあるんだなあ』と、自分の力にしてほしいと思うんです」


 即効性はないかもしれない。だが、いつか役立てばいいと考えている。

「彼らもいつかは社会に出て、若い人を導く立場になる。リーダーはどう振る舞うべきかはもちろん、あいさつやマナーの大切さを将来、『そう言えば高校時代、野村監督のあの考えを読んだことがあったな』と思い出せるようになってもらえたら、嬉しいです。私の教え子はノムラの孫弟子ですから」


 今でもふと、「ノムラの考え」を開く時がある。

「ミーティングで『新鮮だな』『楽しいな』と感じた、あの頃の気持ちに戻れるんですよね。これからもずっと、心の支えです」

 お前、監督やれ――。


 しわがれた声が耳にこびりつき、離れない。

 恍惚と不安を感じた38歳の秋。あの日の初心を呼び起こし、練習中のベンチでは当時の野村と同じ場所に座る。日々変化する選手の成長に目を凝らし、心に刻まれた恩師の教えを、若き力に注入する。

砂まみれの名将 野村克也の1140日

【写真提供:株式会社新潮社】

阪神の指揮官を退いた後、野村克也にはほとんど触れられていない「空白の3年間」があった。シダックス監督への転身、都市対抗野球での快進撃、「人生最大の後悔」と嘆いた采配ミス、球界再編の舞台裏、そして「あの頃が一番楽しかった」と語る理由。当時の番記者が関係者の証言を集め、プロ復帰までの日々に迫るノンフィクション。スポーツナビ未掲載を含む全8章構成。

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著者プロフィール

1974年4月7日、茨城県水戸市生まれ。水戸一高、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、1997年に報知新聞社入社。2003年からアマチュア野球担当としてシダックス監督時代の野村克也氏を取材。2009年にはプロ野球楽天担当として再度、野村氏を取材。その後、アマチュア野球キャップ、巨人、西武などの担当記者、野球デスクを経て、2022年3月現在はスポーツ報知デジタル編集デスク。スポーツ報知公式YouTube「報知プロ野球チャンネル」のメインMCも務める。

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