連載:高校サッカー選手権 名将の哲学

王国静岡をリードし、清商で3度の選手権V 大瀧雅良氏「風間八宏を見て、考え方が一変」

栗原正夫
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「監督生活は無我夢中であっという間だった」と振り返った大瀧雅良氏 【栗原正夫】

 かつてサッカー王国と呼ばれ、1980年代には高校選手権で決勝進出7度、ベスト4進出2度と圧倒的な強さを誇った静岡。県内には清水東、藤枝東、東海大一など強豪校がひしめき、いずれも全国優勝を狙えるほど高いレベルで競い合っていた。

 そんななか、85年度の選手権初優勝を皮切りに、選手権(3度)、インターハイ(4度)、全日本ユース(5度)を含め計12度の全国優勝を誇るなど、静岡の高校サッカーをリードしてきたのが清水商業だった。

 残念ながら同じく清水市内の庵原高との統合により12年度限りで「清水商業」という名は消滅してしまった(現清水桜が丘高)。ただ、風間八宏(セレッソ大阪技術委員長)を筆頭に、平岡宏章(清水エスパルス監督)、藤田俊哉(JFA欧州駐在強化部員)、名波浩(松本山雅監督)、大岩剛(U-21日本代表監督)、望月重良(SC相模原代表)、平野孝(ヴィッセル神戸スポーツダイレクター)、川口能活(日本代表コーチ)、早川知伸(横浜FC監督→コーチ)、小野伸二(コンサドーレ札幌)……と、OBの名前を挙げればきりがなく、サッカーファンの心のなかには「キヨショウ」の記憶がはっきりと刻まれているはずである。

 選手として日の丸を背負っただけでなく、引退後に指導者として日本サッカー界に貢献している者も多いが、74年の母校赴任以来、39年間にわたり清水商業を率いてきた大瀧雅良氏(70)はどのような考えで指導を行ってきたのかを聞いた。

一定の距離を保ち、選手に考えさせる指導

第96回大会で清水桜が丘高校を率いた大瀧雅良監督 【写真:アフロスポーツ】

 2021年11月、静岡県清水市内の喫茶店で顔を合わせると、大瀧氏はつぶやいた。

「J1ではエスパルスと横浜FC、J2では松本山雅と相模原、みんな残留争いで大変。だから、週末はもっぱら教え子の応援に行っています」

 2011年度限りで教員としては定年となったが、その後も非常勤講師として教壇に立ちながら、17年度までは母校(13年度以降は清水桜が丘)で指導を続けていた大瀧氏。現在は第一線から退き、気になるのは教え子のチームの結果だと苦笑いを浮かべた。

 スタジアムには行っても、かつての教え子に声をかけることはない。観戦は招待席ではなく、一般席だという。

「(教え子が頑張っているのは)うれしいですよ。ただ、今はもうプロの監督。多くの人に囲まれているなか、僕は性格的に『おいっ!』なんて声をかけるタイプでもないですから。そっと見ているだけです」

 そんな距離感が大瀧流なのだろう。

「僕は高尚な人間じゃないしね(苦笑)。選手権で3度勝ったといっても無我夢中でやっていただけ。勝ったときもありますが、それは選手の頑張りに尽きます。何年も負け続けていた時代もあって、いい時ばかりではなかったですし、反省の方が多い。とくに若い頃は、清水は少年サッカーが盛んでいい素材の選手がいたにもかかわらず、僕の指導が手探りもいいところで……。なかなか結果に結びつきませんでした。(OBの活躍は)彼らがその後にいい指導者、いいチームに巡り合ったということ。もちろん、僕自身もいい選手に巡り合って、いい思いをさせてもらったということです。今は余計にそんな風に思います」

 監督生活を振り返ってもらうなかで大瀧氏が強調したのは、多くのタイトルを獲得したことではなく、若い頃にただガムシャラに突き進み、結果を出せなかったことだった。

価値観を覆された風間八宏との出会い

1979年の高校3年時にはワールドユース(現U-20W杯)に日本代表として出場した風間八宏(前列右から3番目) 【写真:山田真市/アフロ】

 77年、指導者としての1つの転機は風間八宏との出会いだった。
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著者プロフィール

栗原正夫

1974年生まれ。大学卒業後、映像、ITメディアでスポーツにかかわり、フリーランスに。サッカーほか、国内外問わずスポーツ関連のインタビューやレポート記事を週刊誌、スポーツ誌、WEBなどに寄稿。サッカーW杯は98年から、欧州選手権は2000年から、夏季五輪は04年から、すべて現地観戦、取材。これまでに約60カ国を取材で訪問している