吠える前園、異彩を放つ中田、神懸かる川口 型破りなアトランタ代表、ギラギラの正体
今から25年前、キャプテン前園を中心とした個性派集団は、世界への扉をこじ開け、アトランタ五輪で奇跡を起こす 【写真:築田純/アフロスポーツ】
ジーコやストイコビッチと比べれば……
そんな気概と使命感に突き動かされる姿こそ、今もって色あせぬ魅力の源泉だったかもしれない。ちょうど四半世紀前の1996年夏、アトランタ五輪に挑んだU-23日本代表である。
とにかく、鼻っ柱の強い個性派集団だった。
「どこと戦っても負ける気がしない」
「絶対に僕らのほうがA代表よりも強い」
聞いているこちらが思わず腰を抜かしそうになったことは数知れず。それが妙に心地よかった。ただのハッタリではなく、本気でそう考えているあたりが実に頼もしかったからだ。
彼らはJリーグの申し子でもあった。
チームのキャプテンを担った前園真聖ら最年長の世代はプロリーグ開幕前夜の1992年春に高校を卒業し、Jクラブの門をくぐった。アマチュアでもセミプロでもない。10代ながらも、歴としたプロとして扱われる最初の世代だった。
そのうえ、所属クラブで定位置をつかみ、めきめきと頭角を現していった。前園のほか、ストライカーの小倉隆史や城彰二はリーグ戦での活躍が認められ、A代表にも選出されている。まさしく飛ぶ鳥を落とす勢い。彼らと接するたびに、並々ならぬ自信が手に取るように伝わってきた。
だが、彼らの多くは国際レベルの大会を一度も経験していない。
いや、彼ら以前の世代もそうだ。1968年に銅メダルを獲得したメキシコ五輪代表が最後である。ただ、当時の五輪におけるサッカーはアマチュアの争う場。プロの参加が認められたのは1988年のソウル五輪からで、1992年のバルセロナ五輪からは年齢制限(23歳以下)が設けられる。
そのバルセロナ五輪への出場を目指した日本のU-23代表は大学生を主体に構成されていた。それからわずか4年後、五輪代表は見事に「プロ化」されたわけである。Jリーグの効果は計り知れないものがあった。バックスの秋葉忠宏から聞いた言葉を鮮明に覚えている。
「僕らは普段からジーコやストイコビッチたちと戦っていますからね。アジアの、それも同じ世代の連中なんか、ちっとも怖くないですよ」
成功体験を重ねることで手にする自信がこうも人(若者たち)を変えるのか――と驚くばかりだった。高校時代は全国的にほぼ無名の存在だったストッパーの鈴木秀人がジュビロ磐田でハンス・オフト監督に見出され、瞬く間に五輪代表の主力に収まった例は象徴的だったかもしれない。
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