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城彰二×金子達仁スペシャル対談
アトランタ五輪「25年目の真実」

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 今から25年前の1996年アトランタ五輪。実に28年ぶりの本大会出場を果たした若き日本代表は、初戦で王国ブラジルから大金星を挙げながら、結局グループリーグを突破できなかった。その歓喜と失意の狭間には何があったのか。当時の中心メンバーだった元日本代表FWの城彰二氏、そして、この大会の舞台裏を描いた『28年目のハーフタイム』の著者として知られるスポーツライターの金子達仁氏が、東京五輪を目前に「25年目の真実」を語り合う。

オグの抜けた穴は全然埋まらなかった

25年前のアトランタ五輪を選手として経験した城氏(右)と、スポーツライターとしてその舞台裏を描いた金子氏(左)が、改めて当時の思い出を語り合ってくれた(新型コロナウイルスの感染防止に努め、撮影時のみマスクを外しました)
25年前のアトランタ五輪を選手として経験した城氏(右)と、スポーツライターとしてその舞台裏を描いた金子氏(左)が、改めて当時の思い出を語り合ってくれた(新型コロナウイルスの感染防止に努め、撮影時のみマスクを外しました)【YOJI-GEN】

──お二人はもう何年来の付き合いになりますか?


城彰二(以下、城) 最初に僕のプレーを見てもらったのが、91年のイギョラ杯(東京都で開催されるユースのサッカー大会)かな。鹿実(鹿児島実業高)に入学する直前の大会でしたよね?


金子達仁(以下、金子) 取材に行ったら、空中で止まる中学3年生がいましたからね。それで、「釜本(邦茂)二世」って書いて。


 言われたなぁ、そんなこと(笑)。


──そんなお二人にとって、おそらく人生の大きなターニングポイントになったであろう大会が、96年のアトランタ・オリンピックだったと思います。城さん、当時の五輪代表はどんなチームでしたか?


 個性派集団ではありましたよ。でも、俺たちは言われているほどバラバラだったわけじゃなくて、すごく話し合うし、それぞれの特徴をちゃんと理解してもいたんです。たとえばゾノ(前園真聖)だったら、横にドリブルしたあとは縦パスを付けてくるよな、とか。みんな自分のやりたいプレーをしながらも、そういった特徴をお互いに意識して、なあなあにせずに擦り合わせることができるチームでしたね。ヒデ(中田英寿)なんかは、こっちが「あんなパスに届くわけがない」って言ったら、「届くように走れ」って返してくるし(笑)。


金子 そのヒデって、オグ(小倉隆史)の代役だったわけじゃないですか。(アジア最終予選の直前合宿で右膝十字靭帯を断裂した)オグが抜けた時の城さんの気持ち、代わりに入ってきたヒデとのファーストコンタクトって、どんな感じでしたか?


 やっぱりオグがあの世代の絶対的エースだったから、彼が離脱したショックは本当に大きかった。しかも、2人組でクロスボールに入っていく練習中の怪我だったんですけど、その時にコンビを組んでいたのが俺ですからね。ただ、本大会には間に合う可能性もあったので、「オグのために」っていう想いがみんなの中にありました。


金子 そこに飛び級でヒデが入ってきた。


 本人は飄々としてましたよ(笑)。たぶん、なんのプレッシャーも感じてなかったと思う。


金子 服部(年宏)君は、「縦社会を乱す奴が入ってきた」って。


 ちょっと異色でしたよね。先輩を立てないどころかタメ口で、逆にこっちが怒られたりする(笑)。でも、裏を返せば一切物怖じしない良さがあったし、それにキャプテンのゾノが上手くまとめてくれたんですよね。「お前ちょっと言い過ぎだぞ」って諫(いさ)めたりしながら、少しずつチームに溶け込ませていったんです。


金子 プレーヤーとしての小倉君の穴は埋まりましたか?


 いや、全然埋まらない。オグのあの独特のリズムと決定力っていうのは特別でしたからね。でも、だったら違うサッカーをやろうと。オグは流れてボールを受けて、そこから自分で仕掛けていくタイプだったけど、俺にはそれができない。それなら、俺がポストプレーに徹して、そこからサイドに展開するような攻撃をしようと、やり方を変えていきましたね。

吉田治良

1967年、京都府生まれ。法政大学を卒業後、ファッション誌の編集者を経て、『サッカーダイジェスト』編集部へ。その後、94年創刊の『ワールドサッカーダイジェスト』の立ち上げメンバーとなり、2000年から約10年にわたって同誌の編集長を務める。『サッカーダイジェスト』、NBA専門誌『ダンクシュート』の編集長などを歴任し、17年に独立。現在はサッカーを中心にスポーツライター/編集者として活動中だ。

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