連載:あのJリーガーはいま

「ゴールすればチャラになる世界だと…」 片桐淳至が振り返る、プロの大きな壁

栗原正夫
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2011年にはJ1の甲府で29試合に出場し、同年に17ゴールをマークしたハーフナー・マイク(写真左)との絶妙なコンビも光った 【写真は共同】

 2001年度の高校選手権で得点王に輝き、岐阜工高を準優勝に導いた片桐淳至は02年に鳴り物入りで名古屋グランパスに加入。デビュー戦となったナビスコカップ第2節の広島戦に途中出場すると、終了間際にチームを救う起死回生の同点ゴールを決めるなど、プロとしてこれ以上ないスタートを切った。

 しかし、当時の名古屋にはウェズレイ&ヴァスティッチの強力2トップのほか、ベテランFW森山泰行やブラジル出身のマルセロと前線の層は厚く、片桐は思うような出場機会を得られずに苦しい日々を過ごしていた。

 ナビスコカップ第4節の鹿島戦では初の先発フル出場で、片桐はゴールこそなかったが全3得点に絡む活躍でチームも3-0と勝利した。だが、リーグではセカンドステージの5試合に出場したのみ。2年目以降はカップ戦も含め公式戦に1試合も出場することなくアルゼンチンへ武者修行に出るも、05年帰国するとチームに居場所はなく同シーズンの途中にはJFLのFCホリコシ(現アルテ高崎)への期限付き移籍を余儀なくされた。

 わずか数年前には選手権で国立競技場を沸かせた片桐に、いったい何が起きていたのか。

遅刻を繰り返し、坊主にさせられたことも

名古屋グランパス時代は寝坊を繰り返し、坊主にさせられたこともあったという 【栗原正夫】

 片桐はいま振り返れば、近くにアドバイスをくれるような経験ある人がいたら違っていたかもしれないといい、こう続けた。

「初めて出たナビスコカップで初ゴールを決めるなどスタートは良かったんですけどね。ただ、プロ入りの際に正直どんな選択肢があるかもわからないまま名古屋に入ることが決まっていて、今にして思えば他の選択はなかったのかな、とは思います。だって、普通に考えれば当時の名古屋の前線には外国人選手を含め実績のある選手が多くいて、高校を出たばかりの僕が突っ込んで勝負できるような場所ではなかったですから。でも、当時は代理人もいなければ、期限付き移籍がどういうものなのかもわからない状態。その辺のアドバイスをしてくれる人がいたら、少しは違っていたのかなとは思ったりします」

 もちろん、片桐にも非はあった。

「寝坊とかをしてしまって……。若い頃は社会人になり切れていなかったというか、1年目に試合に絡み始めたときにサッカー以外のところで甘い部分があって悪いレッテルを張られてしまい、それを取り戻すのが難しかった。1年目に練習への遅刻を5回してしまい、2年目のキャンプ中にまた遅刻。普通はキャンプ中に遅刻なんてしないと思いますが、朝起きられずに……。一番辛かったのは、高校生でもないのに坊主にさせられたこと。これは僕の偏見かもしれませんが、ベテラン選手が遅刻してきたときと、僕がしたときの監督やスタッフの対応は明らかに違いました。僕的には仮に遅刻をしても、プロはゴールすればチャラになる世界だと思っていたんですが、そのことをピッチでも引き合いに出され、すべてが難しくなりました」
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著者プロフィール

1974年生まれ。大学卒業後、映像、ITメディアでスポーツにかかわり、フリーランスに。サッカーほか、国内外問わずスポーツ関連のインタビューやレポート記事を週刊誌、スポーツ誌、WEBなどに寄稿。サッカーW杯は98年から、欧州選手権は2000年から、夏季五輪は04年から、すべて現地観戦、取材。これまでに約60カ国を取材で訪問している

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