マエケンを育てた藤原弘介監督が語る あの不祥事も乗り越えたPLの強さの秘密
半年間の謹慎処分後、27歳という若さでPL学園野球部の監督に就任した藤原氏。難しい時期を乗り越え、母校を春夏合わせて3度の甲子園出場へと導いた 【本人提供】
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「戦争が始まったら家に帰れるぞ」
小学校まではソフトボールをやっていて、中学で河内長野ボーイズというチームに入ったんですが、そのOBの多くがPLに進学していたことが大きかったですね。立浪(和義)さんがキャプテンで春夏連覇を達成した年(87年)の代には、河内長野ボーイズ出身の先輩が5人もいらっしゃいました。桑田(真澄)さん、清原(和博)さんの代も子どもの頃に当然見ていますし、憧れもありましたから、自分で希望してセレクションを受けさせてもらったんです。
──入部前から厳しい環境だというのはご存じでしたか?
いえ。当時はそれほど情報があるわけでもないですから、詳しいことは知りませんでした。寮生活だから、きっと厳しいんだろうなという程度ですね。実はPLも87年の春夏連覇の後は少し甲子園から遠ざかっていて、当時は近大付属や上宮が強かったんです。自分が中学3年の時は元木(大介)さんがいた上宮が特にすごかった。だから、PLだけが特別に強くて厳しいという印象もありませんでした。
──実際に入られて、大変だったことは何ですか?
まずは寮生活ですよね。中学までは親に洗濯をしてもらっていたのに、高校では自分でやらなければいけないし、さらに先輩の分もある。そういった生活に慣れるのが大変でした。野球のレベルもとにかく高かった。自分が入った時は入来(祐作)さんがエースで、それまで見たことのないようなボールを投げられていましたから。それに、PLは1年生から3年生まで基本的に同じ練習メニューなんですけど、3年生はまずエラーをしない。ノックのボール回しでも送球の速さ、正確さがまるで違う。すごいところに来てしまったなと思いましたね。
──そこでプレーしていれば、自然と自分のレベルも上がっていくような手応えはありましたか?
正直、手応えなど感じている余裕はなかったですね。下級生の頃はテレビを見る時間もなく、完全に社会と隔離されていた感じで、(比較対象となる)他の高校の情報も伝わってきませんでしたから。私が1年生の時の1月に湾岸戦争が始まったんですけど、同級生の誰かが「戦争が始まったら家に帰れるぞ」みたいなことを言っていたのをよく覚えています(笑)。
我々の代は歴代でも最弱と言われていて、その中で自分はレギュラーでもありませんでしたから、レベルどうこうは本当に分からなかったんです。ただ同期には今岡(誠)がいて、エースはひとつ下の松井稼頭央(当時は和夫)。卒業後に大学や社会人で活躍した選手も多かったので、あとから考えるとやっぱりレベルは高かったんでしょうね。
「謙虚な気持ちを持ち続ける」という教え
藤原監督自身も92年のセンバツに控え選手として出場。当時の中村順司監督(写真右)からは、決して驕らず、謙虚な気持ちを持ち続けることの大切さを学んだという 【写真:岡沢克郎/アフロ】
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