連載:数々の伝説に彩られたPL学園の「凄み」

野村弘樹が語るPL学園の「背番号1」 先輩・桑田真澄から学んだこととは?

平尾類
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同級生の立浪、片岡、橋本、1学年下の宮本らとともに甲子園で春夏連覇を達成。当時のチームはPL学園史上最強とも言われるが、この評価に対して野村氏は…… 【平尾類】

 名門・PL学園の輝かしい歴史の中でも、甲子園で春夏連覇の偉業を達成したのは1987年のみ。立浪和義(元中日)、片岡篤史(元日本ハム、阪神)、橋本清(元巨人)らを擁した栄光のチームで、エースナンバー「1」を背負ったのが野村弘樹だった。プロでも横浜ベイスターズ(現横浜DeNA)のエースとして活躍し、通算101勝を挙げた野村氏が、PL学園の「背番号1」への特別な思い、2学年上の先輩・桑田真澄氏(現・巨人1軍投手チーフコーチ補佐)との秘話などを明かしてくれた。

野球人生を変えた立浪、橋本との出会い

──広島で生まれ育った野村さんが、PL学園に進学した経緯を教えてください。

 中学時代に広島市民球場で試合をやったのですが、左翼の後方にPLの広島中央教会があって、野球好きの教会長が観に来て声をかけてくれたんです。その時に自分もPLでやってみたいと。

 もともと高校野球が好きで、小3ぐらいからスコアブックをつけながらテレビで見ていました。印象に残ったのがPLです。西田真二さんが活躍されていて、「逆転のPL」と呼ばれて。英語の横文字が入ったユニホームも新鮮でかっこよかった。衝撃的だったのが清原和博さん、桑田真澄さん。83年夏の準決勝・池田高戦で1年生の桑田さんが完封して。決勝では清原さんが本塁打を打って優勝しました。

 ただ、自分の父親が広陵高の野球部OBで、周りも広陵に99%行くと思っていました。「PLに行きたい」と言った時はチームの監督やコーチ、親戚全員に反対されました。「3年間、試合に出られないぞ」と。

──そこで進路を変えようとは思わなかったんですか?

 立浪(和義)、橋本(清)との出会いが大きかった。あの2人に出会わなかったらPLに行かなかったと思います。中学の時に2人が所属する「茨木ナニワボーイズ」と対戦したのですが、橋本の球が速すぎてバットに当たらない。立浪にも簡単にヒットを打たれて。立浪はショートの守備もすごかった。

 2人がPLにいくと聞いて、このままではまずいとメチャクチャ練習しました。広島の2軍の選手も練習していたジムに週3回通って体力強化して。腕立て、腹筋 、懸垂が各150回できるようになりました。当時広島のエースだった川口和久さんもトレーニングに来られていたんです。「おい、小僧。ジュースをごちそうしてやる。おつりはやる」って500円を渡されて。現役引退後に川口さんにその話をしたら、「おまえだったのか!」って驚いていました(笑)。トレーニングはしんどかったけど、続けられたのは立浪、橋本との出会いがあったから。感謝しなきゃいけないですね。

今思い出しても鳥肌が立つ桑田の投球練習

偉大な先輩、桑田から学んだのは制球力の大切さ。 独特の軌道を描くカーブの投げ方も教わったが、習得できなかったという 【写真:岡沢克郎/アフロ】

──PL学園では2学年上に「KKコンビ」がいました。桑田さんの印象はいかがでしたか?
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著者プロフィール

1980年4月10日、神奈川県横浜市生まれ。スポーツ新聞に勤務していた当時はDeNA、巨人、ヤクルト、西武の担当記者を歴任。現在はライター、アスリートのマネジメント業などの活動をしている。

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