連載:解説者と実況アナ、野球&サッカー中継を彩る一流の“伝え手”たち

山本浩・元NHKアナがあの名実況を回顧 ジョホールバルの啓示とドーハの後悔

吉田治良
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日本サッカーの発展を実況席から支えてきた山本さん。あの名調子をもう一度、と願うファンも多いはずだが、本人はアナウンサーという仕事に未練はないという 【YOJI-GEN】

 ディエゴ・マラドーナをアイドルとして育った世代は、彼の雄姿を思い出すたびに、あの名実況が脳内で再生されるに違いない。

「マラドーナ…、マラドーナ、マラドーナ来たーっ! マラドーナーッ!!」

 アトランタ五輪のアジア最終予選、サウジアラビアの猛攻に肝を冷やし続けた人たちは、このフレーズに今一度、勇気を奮い起こしたことだろう。

「前園が声を掛ける。ニッポンに声を掛ける前園!」

 フランス・ワールドカップのアジア第三代表決定戦、祈るような思いでイランとの死闘を見つめながら、多くの人がこの言葉に胸を熱くしたはずだ。

「このピッチの上、円陣を組んで、今散った日本代表は……私たちにとって“彼ら”ではありません。これは、“私たちそのもの”です」

 元NHKアナウンサーの山本浩氏が、スポーツ実況の現場を離れて、もう15年以上の月日がたつそうだ。それでもその名実況の数々がいまだ色あせず、こうして語り継がれるのはなぜだろう。

 それはきっと、山本浩というアナウンサーが、単なるスポーツアナウンサーの枠を超えた存在だったからに違いない。とりわけ30代半ば以降の中高年世代にとっては、日本サッカーのまさしく激動の時代を実況席から見つめ、その右肩上がりの成長を支え続けてくれた恩人でもあるだろう。

 現在教鞭(きょうべん)をとる法政大学の多摩キャンパスに、“サッカー実況のレジェンド”を訪ねた。

98年天皇杯決勝ではフレーズがひとりでに

横浜フリューゲルスが合併消滅する前の最後の試合となった、98年の天皇杯決勝。記憶に残る試合終了後のあのフレーズは、「ひとりでに出てきた」そうだ 【写真:Shinichi Yamada/アフロスポーツ】

――いきなりですが、実況席に未練はありませんか?

 ないんですよね、それが。アナウンサーの仕事って、カラオケに近いところがあるんです。自分が好きな曲、つまり良い試合にあたるとすごく気持ちがいい。まあ、僕がやっていた頃は日本代表がまだ弱くて、「危ない!」って叫んでいることがほとんどでしたけどね(笑)。それに、当時はテレビをご覧になっている方があまりサッカーに詳しくなくて、親子丼でもごちそうと思われた時代。だからやりやすくもあったわけですが、今は情報があふれ、サッカーも緻密でどこか幾何学的な感じがしています。そこで自分がやろうという気持ちはなかなか湧いてこないですね。

――それでも今回のアンケートでは、多くの現役アナウンサーを抑えて6位にランクインされました。投票理由には、「名実況と言えばこの人」、「日本サッカーの歴史に残る名言の数々」、「サッカー実況のレジェンド」といったコメントが多く寄せられました。

 勇気をいただけます。ただ「レジェンド」というのは、(その分野で)やっている人が少ない時にちょっと目立てば、だいたいそう呼ばれるものなんですよ(笑)。あと、みなさんが良い放送だと言ってくださるのは、実は「部分」を切り取ったものなんですね。全体として見るとひどい放送だったりする。特に若い頃は包丁の研ぎ方を分かっていないから、ある部分は切れても、他は切れない。そういう意味では、褒めていただけるのは嬉しいですが、少しこそばゆい気分にもなりますね。

――とはいえ、今に語り継がれる山本さんの名実況はいくつもあります。例えば、日本の初めてのワールドカップ出場が懸かった1985年10月の韓国戦。「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいてきているような気がします」という放送開始直後のフレーズなどは、事前に用意されていたものなんですか?
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著者プロフィール

1967年、京都府生まれ。法政大学を卒業後、ファッション誌の編集者を経て、『サッカーダイジェスト』編集部へ。その後、94年創刊の『ワールドサッカーダイジェスト』の立ち上げメンバーとなり、2000年から約10年にわたって同誌の編集長を務める。『サッカーダイジェスト』、NBA専門誌『ダンクシュート』の編集長などを歴任し、17年に独立。現在はサッカーを中心にスポーツライター/編集者として活動中だ。

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