Bリーグ新チェアマン島田慎二は何者か? 高校はサッカー部「選手権に出たかった」

大島和人

中学は野球部、高校はサッカー部、会社経営を経て千葉ジェッツの社長へ。異色の経歴を持つ若き新チェアマンに話しを聞いた 【スポーツナビ】

 破綻寸前だった千葉ジェッツをBリーグ最大規模まで引き上げた名物経営者が、今度はリーグ全体を引っ張ることになった。

 島田慎二は自ら立ち上げた企業を売却し「セミリタイア」の状態にあった2012年、半ば引きずり込まれる形でジェッツの経営に関わるようになる。bjリーグからNBLへの移籍など矢継ぎ早に手を打ち、数年で誰もが目をみはる成果を出した。

 新チェアマンはそもそもどのような人物なのか? 今回のインタビューはまずそこから掘り下げて語ってもらっている。故郷の村を飛び出して山形の高校でサッカーに打ち込んだ3年間と、東京で悶々(もんもん)としていた大学の4年間……。形にならない野心を秘めていた少年は、不完全燃焼の青春を経て志を熟成させ、旅行業とスポーツビジネスで成功を収めた。

 彼ははっきりした物言い、摩擦や波紋を恐れぬ姿勢でお馴染みだが、チェアマンに就任してもそれは変わらないだろう。Bリーグは新型コロナウイルス問題を受けて不安と希望の相半ばする状況だが、目下の課題についても率直なコメントがあった。

考えさせてくれというよりは、直感的に決めた

――チェアマン就任の要請を受けたとき、どういう受け止め、反応をしましたか?

 4月の頭に電話で野宮(拓)法務委員長から連絡をもらいました。「大河(正明)さんが辞められるんだ」というところで一番驚きましたね。大河さんの話で驚き、私へ絞ったことにも驚きました。

 いろいろな業務をしていたし、千葉ジェッツの会長なので(大株主の)ミクシィと相談しないで勝手に決断もできません。ただ光栄でしたし、その辺を整理できればやる覚悟はありますみたいなリアクションはすぐしました。考えさせてくれというよりは、直感的に「調整ができるならやりましょう」と話をしました。

――2015年3月と聞いていますが、島田さんはJAPAN 2024タスクフォースの川淵三郎議長(当時)からBリーグチェアマン就任の要請を受けてお断りになった経緯があります。今回の受諾はどういう変化が背景ですか?

 バスケットボール界、Bリーグの状況でなく自分自身の状況が変わっています。あのときはジェッツの社長で、まだバリバリやらなければいけませんでした。今は会長で、代表権は持っているものの、現場の執行は渡しています。ジェッツのところが身軽になっていたのは、判断をしやすかった大きな理由です。

 19年8月の社長退任も、次のフェイズに入らなければいけないという考えでした。昨季は親離れというか、ミクシィさんのサポートも含めて徐々に島田依存体制が薄れていることも感じていました。とはいえどこかで甘えもあるから、いつかは完全に撤退するほうがいいと思って、タイミングを測っていました。

――島田さん個人のことをお聞きします。子供の頃から人の前に立つタイプだったんですか?

 小中、高校も含めて目立つ方でも、ガキ大将でもない、普通の子でした。地味に部活とかでスポーツを頑張るというのはありましたけれど、クラスのリーダー、存在感が強いタイプではなかったですね。

――新潟県のご出身で、日大山形高校のサッカー部という経歴が不思議だなと感じていたのですが?

 実は中学では野球部なんですよ。高校は全国大会に出るようなところへ、初心者的に入っています。越境ですから、下宿もしていました。

 町村合併で今は村上市になっていますけれど、私は村民だったんです。朝日村というところで育ちました。本当に田んぼと畑しかない「ど田舎」ですけど、そこから出たかった。大学で出ていくのが一般的でしょうけれど、高校から出たかった。サッカーをやりたかったのもあって、近場の現実的な学校へ、親に頼んで出ていきました。

――Jリーグはできる前ですが「サッカーで上を目指す」「全国大会に出る」という志は持っていたわけですね?

 そうです。高校サッカー選手権に出たくて、強い学校に行きたいなと思っていました。湘南ベルマーレのコーチで、去年は監督代行もやっていた高橋健二をご存じですか? 彼と同じ学年です。(※13年に渡って地元クラブでプレーし「ミスターモンテディオ」として知られている)

 彼は大会の優秀選手に選ばれて、ヨーロッパにも遠征に行って、ファンクラブがあるくらいモテモテでした。私は地味で天と地でしたけれど、でもチームは在学中に3年連続で選手権、インターハイに出ています。高3のときはベスト16で、下川健一(ジェフ市原などでプレーした元日本代表GK)がいた岐阜工業にPK戦で敗れ、国見戦まで届きませんでした。

――新潟の野球少年が、全国大会レベルのサッカー部に入るのも思い切った決断ですね。

 村ですから、1学年1クラスで男の部活は野球部とバスケット部しかなくて……。当時はバスケがあまり好きじゃなくて(笑)。

 あと肩と肘を壊して、中1くらいでもう投げられないくらいになっていたんです。ボールを投げられないしサッカーだな……と思って草的な、サークル的なものに属して少しやっていました。指導者がいて、毎週ここでやっているというものではなかったです。ただ『キャプテン翼』とかもあって、趣味の延長線上でやっていました。気持ちはサッカーにあったんですけれど、部活がないのでそういう感じでした。

――島田選手の実力はどうだったんですか?

 日大山形は5軍くらいまであったので、3軍くらいの感じですね。ポジションはフォワードです。選手権はスタンドで声を出していました。

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著者プロフィール

1976年に神奈川県で出生し、育ちは埼玉。現在は東京都北区に在住する。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れ、世界中のスポーツと接する機会を得た。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を開始。取材対象はバスケットボールやサッカー、野球、ラグビー、ハンドボールと幅広い。2021年1月『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』を上梓。

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