“代打・投手”なのに特大ホームラン!? 「デカ」高橋智を覚醒させた練習法とは
今の野球では考えられない“打つだけの”外野陣
プレースタイルの変革期にあった2000年代初頭のプロ野球において、高橋智のような選手は次第に求められなくなっていった 【写真は共同】
「あるとき練習で、僕が松永(浩美)さんに『なんかダメなんですよね』みたいなことを軽く言ったんです。そうしたら『何も考えず、黙ってセンター返しをしておけ』と言われました。俺が見本見せたるから、と」
松永はバッティングマシンのほぼ正面に立ち、胸元に向かってくる球をカーンと綺麗にさばいて見せた。ステップしたとき(右バッターの)右肩が開かずに残り、球をギリギリまで引き付けて打つ。そのときバットの先端は、内側から実にスムーズな軌道で出ていった。
「ちょうど落合(博満=当時中日)さんがベースの上に立って、体の正面に向かって来る球を打ち返す練習をしていたのも見ていたんです。落合さんと松永さんの練習を参考に、自分なりに練習方法を考えました。思えば水谷さんに教わっていたときも、楽しかったんですね。水谷さんがいなくなって、成績も停滞し途方に暮れていたとき、松永さんにアドバイスをいただいた。また野球が楽しくなりました」
翌1992年には東京ドーム初の1試合3本塁打、初のオールスター出場にベストナイン選出。一時はブライアントと本塁打王争いも演じた。だから和製大砲「デカ」に、誰もが特大の一発を期待した。しかし柵越えを狙い過ぎると、バッティングは崩れる。率を残したい自分の気持ちと、大物打ちへの周囲の期待との乖離(かいり)。そこに故障、松永の移籍、土井監督退任も重なった。高橋は次第に出場試合を減らしていった。
98年オフ、トレードでヤクルトに移籍。そこで高橋は、息を吹き返す。オリックスヘッドコーチ時代に高橋を買ってくれていた中西太が、ヤクルトの打撃アドバイザーを務めていた良縁もあった。1999年からの2年間で本塁打29本、3割近い打率を残し、八重樫(幸雄)コーチに「デカがいたから、(若松勉監督就任からの)この2年間最下位にならずに済んだ」と言わしめた。だが――。
「パ・リーグからセ・リーグに行って感じたのは、阪神・野村(克也)監督の野球に代表されるように、駆け引きが長いこと。僕の神経じゃあ、ハナから無理だった(笑)。それはともかく、3年目に干された。自分ではまだまだという気持ちはあったけれども、(34歳の)年齢で判断されたところは大いにあったと思う。でも今考えてみれば、あの時代にもう、俺が合っていなかったんでしょうね。野球自体が、変わってきていた。今、左から石嶺(和彦)、俺、門田(博光)なんていい加減な外野、見ないでしょう(笑)」
球場が広くなり、外野手にスピードと肩が求められる時代。“宵越しの金は持たない”ような、昭和型の豪快な選手が消えつつあった。そんな21世紀最初のシーズン限りで、高橋は日本球界を去った。
(企画構成:株式会社スリーライト)
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高橋智(たかはし・さとし)
【撮影:スリーライト】