連載:プロ野球 あの人はいま

ノックで球児たちと“対話”する喜多隆志 指導者として再び甲子園に立つ日を夢見て

沢井史
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母校・智弁和歌山高の野球部を離れ、新たな夢に向かって歩む喜多隆志。彼が監督を務める興国高グラウンドを訪ねた 【撮影:スリーライト】

 かねてからの夢だった“野球の指導者”に向け、裸一貫でスタートした2007年。母校での指導は試行錯誤を繰り返したが、新天地で再び指導者としての生活をスタートさせた。今では指導者としての生活が楽しいのだという。もともとは人が好きで、静かに情熱を燃やし続ける喜多隆志の今の夢は、もちろん再び甲子園に戻ることだ。

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初めての接客業に四苦八苦

高校、大学時代は野球漬けでアルバイトもしたことがなかったという喜多隆志。初めての接客業での苦労を笑って振り返ってくれた 【撮影:スリーライト】

 年が明け、プロ野球のキャンプインと同じ2月1日。喜多は「ヒマラヤスポーツ」の販売員として店頭に立っていた。

「ヒマラヤスポーツで勤務しながら岐阜経済大へ教員免許を取りに行くことになったんです。後藤監督が岐阜県出身で、(岐阜に拠点のある)勤務先などをすべて紹介していただいて……」

 野球コーナーの一角で、グラブ修理などの受付や販売のため店頭で直接お客さんと接するのが主な業務内容だ。ただ、社会経験がほとんどなかった喜多にとっては何もかもが未知数だった。

「頭を下げることは野球選手としてずっとやっていますが、販売員なのでお客さん優先で考えることが多かったです。レジやクレジットカードのカードリーダーの使い方が難しくて最初は手こずりました。立ちっぱなしで、お客さんと話す。今思えば楽しかったですけれど、苦労はたくさんありました。野球をやっている方がよっぽど楽でしたよ」

 教員免許を取るために2年間岐阜経済大へ通い、その後は慶大時代の先輩・林卓史氏が監督を務める朝日大で助教としてコーチに赴任した。当時は、資格復活後は高校の指導者になるには4年間の時間が必要だったが、大学生は2年間で指導が可能だったのだ。
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著者プロフィール

大阪市在住。『報知高校野球』をはじめ『ホームラン』『ベースボールマガジン』などに寄稿。西日本、北信越を中心に取材活動を続けている。

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