バレー長内美和子が語る躍進の土台 二度の試練に見舞われた高校時代

田中夕子
 2020年東京大会そして世界に向けて、それぞれの地元から羽ばたくアスリートを紹介する連載企画「未来に輝け! ニッポンのアスリートたち」。第49回は東京都出身、バレーボールの長内美和子(おさない・みわこ)を紹介する。

攻撃力を武器に全日本に名を連ねる長内美和子 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 昭和世代からすると、妙に親しみが湧く。最近めっきり減った「子」がつく、平成生まれの女の子。

「両親がどちらも名前に“美”が入るので、美をつけるのはすぐ決まったらしくて。最初は、呼ばれやすい、呼びやすい名前がいいから、と美和だったらしいんですけど、占いで見てもらったら『子』をつけたほうがいいから、って。確かに最近はいないですよね(笑)」

 高い声で、話すスピードは速くない。見た目通り穏やかなしゃべり口だが、バレーボールになると豹変(ひょうへん)する。

 か細い声とは、まさに真逆。

 前衛、後衛、至るところから時折助走にフェイクを入れたり、攻撃位置を変えて仕掛ける多彩な攻撃の数々。ジャンプフローターサーブを打つ選手が増えた今もなお“一撃必殺”とばかりに打ち込むジャンプサーブの美しさと破壊力。

 自らも「武器」と言う攻撃力が育まれたのは、バレーボールを始めた小学生の頃だった。

たまたま入ったクラブが超名門

母と兄の影響で始めたバレーボール。周りと少し違ったのは、入ったクラブが超名門だった 【写真:松尾/アフロスポーツ】

 東京生まれの東京育ち。葛飾生まれの江戸っ子がバレーボールに触れたのは小学校に入るか、入らないか。まだ幼い子供の頃だ。

 母と、7歳上の兄がバレーボールをやっていたこともあり、兄の練習について行って、自分も一緒にボールで遊ぶ。もともと「外で遊ぶのが大好きで、ゲームをするのもわざわざ外へ持って行ってやっていた」という活発な少女が、「自分もやりたい!」と言うのは自然な流れだった。

 ただ少し違っていたのは、その入り口となったクラブが、超名門であったこと。長内に言わせれば「たまたま近所にあった」クラブは、数え切れぬほど全国大会を制し、多くの選手をVリーグにも輩出している東金町ビーバーズだった。

 練習は週に6日。それでも、低学年から中学年のうちはボールを使った遊び感覚の基礎練習が多く、長内自身は「楽しくて、もっと練習したかった」と振り返る。

 高学年になると、実戦形式や技術の応用練習が増え、日々の練習で掲げられる目標は常に「日本一」。当時からスパイクも「ただ思い切り打つ」と漠然としたものではなく、ストレート、クロス、と小学生の頃から徹底してコース打ちも練習した。「小学生の頃はストレートしか打てなかった」と笑うが、厳しい練習の甲斐あって、小学6年時に東京同士の決勝を制し、全国優勝を成し遂げた時は「素直に、すごくうれしかった」と笑う。

 小学生から全国制覇を経験したエリート。中学も複数の学校から声をかけられたが、長内が選んだのは中高一貫の文京学院大学女子中学校。長いスパンで強化に着手していることや文武両道の理念を掲げていることが決め手だった。

 小学生の頃と同様に全国優勝を成し遂げた中学時代も、バレーボール選手としてステップを刻む礎になったのは確かだが、後につながる土台を築いたとしたら、それは間違いなく高校時代。振り返れば「人生で一番怒られて、人生で一番厳しい練習をした」という時間が、今も生かされている。長内はそう振り返る。

一度目の試練は最終学年のインハイ前

文京学院大女子高時代はエースとして活躍も、最終学年で二度の試練に見舞われる 【写真は共同】

 高校生のバレーボール選手にとって、最も華やかな舞台はバレーボール全日本高等学校選手権大会。通称「春高バレー」と称される。以前は3月開催のため1、2年生のみが出場権を得られたが、2011年から1月に開催時期が移行。3年生の出場も可能になり、名実ともに最も重要視される大会になった。

 出場するために勝ち上がるのが最も難しいと言われるのが東京地区。長内が在籍した文京学院大女子高のみならず、下北沢成徳高、共栄学園高、八王子実践高と優勝経験を持つ学校がズラリと顔をそろえる激戦区だ。長内にとっても「全国を勝つよりも東京を勝つことが大変だった」という。

 日本一を目指し、鍛錬を重ねた最終学年時、実は大きな試練に二度、見舞われた。

 一度目は夏。インターハイを控え、喉に違和感を覚えた。練習の休みもなく「風邪だろう」と放置していたら、今度は喉の違和感だけでなく発熱。仕方なく病院へ行くと、先天性の下咽頭梨状窩瘻(かいんとうりじょうかろう)と診断され、緊急入院を勧められた。

「インターハイがあるから無理です、と入院しなかったんです。応急処置として、甲状腺の裏にたまった膿を抜いたら注射器2本分ぐらいあって。約2週間は絶対安静でした」

 医師からは「免疫力が下がっているから過度な運動はしないように」と言われていたが、絶対安静期間が終わるとすぐに練習、試合へ復帰。当然、体は悲鳴を上げ、今度は足底筋膜炎。今になれば「休むべき時に休まなかった自分が悪い」と冷静に振り返ることもできるが、当時は勝つことがすべて。治療しながら出場したインターハイで準優勝したことも後押しになり、さらに練習も厳しさを増し、身体の負担も増していく。

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著者プロフィール

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、『月刊トレーニングジャーナル』編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。著書に『高校バレーは頭脳が9割』(日本文化出版)。共著に『海と、がれきと、ボールと、絆』(講談社)、『青春サプリ』(ポプラ社)。『SAORI』(日本文化出版)、『夢を泳ぐ』(徳間書店)、『絆があれば何度でもやり直せる』(カンゼン)など女子アスリートの著書や、前橋育英高校硬式野球部の荒井直樹監督が記した『当たり前の積み重ねが本物になる』『凡事徹底 前橋育英高校野球部で教え続けていること』(カンゼン)などで構成を担当

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