原辰徳の勇気が巨人の危機を救った 桜井先発が象徴する「脱・固定観念」

鷲田康
 産みの苦しみだった。

 マジックが灯りゴールが見えてから、巨人は優勝の重圧に押しつぶされたように苦しい戦いが続いた。それでも最後の力を振り絞ってたどり着いた、5年ぶりの栄冠だ。ビールかけの歓喜とともに、この優勝は巨人の選手たちに、改めて勝つことの難しさを教えてくれたものだった。

「このチームは4年も勝っていないチームなんです」

 こう語るのは復帰1年目でチームを優勝に導いた、監督の原辰徳だった。

優勝を決め、涙をぬぐう原監督(中央) 【写真は共同】

「一度止まってしまった歯車を動かすには、ものすごい力が必要になります。そのためには常識にとらわれていたり、並大抵のことをやっていたんじゃダメですね」

 勝てないことが続いたチームに、とにかく“勝ち癖”をつけるという指揮官の狙い通りに、今季の巨人は開幕ダッシュに成功。3、4月を16勝10敗の1位で乗り切った。

 だが最初の試練が訪れたのが、交流戦の直前の5月半ばだった。5月11日から初の4連敗を喫して、その4連敗目はエース・菅野智之投手が6回途中で10失点のKO劇。21日にはその菅野が腰の故障で一軍登録を抹消されるアクシデントも起こった。その上、5月下旬には先発を支えてきた今村信貴、C.C.メルセデス、テイラー・ヤングマンらが次々と打ち込まれ、投手陣が火の車となっていた。

 そこで原が決断したのが、誰もが思いもつかなかった投手の先発抜てきだった。

「桜井を先発で使おう」

 原が投手総合コーチの宮本和知にこう告げたのは6月1日のことだった。

「固定観念を捨てることが、このチームには大事」

2015年ドラフト1位の桜井だが、昨季まで一軍での勝ち星はなし。今季も5月まではリリーフで防御率6点台と冴えない成績だった 【写真は共同】

 桜井とは4年目の桜井俊貴投手である。

 2015年のドラフト1位で入団。1年目は1試合だけ先発したが、その後は右肘の故障でほぼシーズンを棒に振り、2年目は中継ぎで19試合に登板するも、防御率は5.67と低迷。3年目の昨年はついに一軍登板はなく、背番号も入団時の21番から2年目には36番、そして4年目の今季は35番と変わるなど、4年間でドラフト1位の面影はすっかり失せてしまっていた。

 今季も開幕一軍を果たしたが、5月29日の阪神戦では延長12回に7番手でマウンドに上がると、1死一、二塁のピンチを招いて敗戦投手となった。31日の中日戦まで、すべて中継ぎで12試合に登板して防御率は6.57。この時点ではどうみてもパッとした成績ではなかったのである。

「僕らは桜井を何とか中継ぎで戦力にしようと必死だった。でも、中日戦の直後に突然、監督が『先発で使おう』と言い出したんです。僕らは正直、『エエ〜ッ!』って感じでしたね」

 宮本は振り返る。ただ、原には桜井への別の評価があった。

「みんなが中継ぎでなかなか結果が出ない桜井に固定観念を持っていたと思うんです」

 原は言う。

「でも僕はむしろ先発の方が力を出せるタイプの投手と見ていた。彼は球そのものに力があるし、変化球の種類も多い。中継ぎ投手というのは、自分の最高のボールを軸に1イニングを抑え込むのが役割。でも彼のようにいろいろな球種を組み合わせて打ち取るタイプの投手は、『5回を3点で抑えてこい』と送り出した方が力を発揮するのではと思っていた」

 確かに桜井は真っすぐも140キロ台中盤でカーブ、スライダー、カットボールにチェンジアップと変化球は多彩だ。無いのは先発経験と、そして何より大事なマウンドでの確たる成功実績という投手なのである。

「でも、そういう固定観念を捨てることが、このチームには大事なんです。あの選手はこういう選手、この選手はこういう役割と決めつけて使っていたら、これまでの4年間と同じ結果しか出ない。それで勝てなかったチームなんだから。だったら我々が自分の目を信じて、選手たちにチャレンジをさせる。あとは指導者が責任を取ればいいだけですから」

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著者プロフィール

1957年埼玉県生まれ。慶應義塾大学卒業後、報知新聞社入社。91年オフから巨人キャップとして93年の長嶋監督復帰、松井秀喜の入団などを取材。2003年に独立。日米を問わず野球の面白さを現場から伝え続け、雑誌、新聞で活躍。著書に『ホームラン術』『松井秀喜の言葉』『10・8 巨人VS.中日 史上最高の決戦』『長嶋茂雄 最後の日。1974.10.14』などがある。

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