コパ・アメリカ2019連載

見極めたい森保ジャパンの成長 コパは世界での立ち位置が問われる場

宇都宮徹壱

あまり良い思い出がないブラジルに到着

今大会の日本代表は五輪世代が中心。テンションが高い南米諸国との温度差が気になる 【宇都宮徹壱】

 羽田からドバイでトランジットして、合計28時間30分のフライトののちにサンパウロのグアルーリョス国際空港に到着したのは、6月14日の17時のことであった。この日はブラジルで開催される第46回コパ・アメリカの開幕日。キックオフまで、あと4時間半というタイミングである。ブラジルに慣れている人間なら、入国後すぐにホテルにチェックインして、そのまま会場のモルンビー・スタジアムに向かい、取材証の手続きを済ませてキックオフまでに取材席にたどり着くことも可能だったかもしれない。しかし眦(まなじり)決してブラジルに到着したばかりの私に、そんな発想が浮かぶことはなかった。

 これまでサッカーの取材で、さまざまな国を訪れてきた。相当に治安が怪しい国にも「そこで試合があるから」という理由を最大のモチベーションに乗り込んできた。実際に訪れてみると、思いのほか過ごしやすかったり、これまで知らなかった魅力に接したりすることも少なくなかった。しかし一方で、どうにもアウェー感が拭えない国というのも存在する。私にとってのブラジルは、まさにそんな感じだ。言葉はまるで通じないし、治安のリスクは常につきまとうし、国土が日本の23.5倍もあるため移動がとにかく大変。実際、5年前のワールドカップ(W杯)取材では、これまでにないくらい消耗してしまった。

 今回のコパ・アメリカに招待出場する、われらが日本代表にとっても、この国にはあまり良い思い出がない。初めて日本がブラジルで試合を行ったのは、平成が始まったばかりの1989年7月。リオデジャネイロでのブラジルとの親善試合は、0−1というスコアに終わったが、日本が守りに守った末の結果であった(観客数は2000人くらいだったらしい)。2013年のコンフェデレーションズカップでは、イタリアに3−4と接戦を演じたものの3戦全敗でグループ最下位。翌14年のW杯も、国民の大きな期待を背負いながらも1分け2敗の最下位に終わり、あっけなく大会を去ることとなった。

 今回の日本代表のメンバーのうち、5年前の屈辱を経験しているのは、ベテラン枠の川島永嗣と岡崎慎司のみ。あるいは3年前のリオ五輪に出場している、植田直通と中島翔哉もまた、ブラジルでのコパ・アメリカに何かしら期するものがあるだろう。それ以外の若い選手たちは、ブラジルでの今大会に良くも悪くも気負いのようなものは伝わってこない。それは一見すると、好ましいことのようにも感じられる。しかしながら他の南米諸国に比べて、大会への温度差にかなりの開きがあることが気になってしまう。

南米諸国にとってのコパ・アメリカの位置づけ

ブラジルのスタジアムでよく見かける露天商。国旗と代表ユニフォームは国民の必需品? 【宇都宮徹壱】

「(チリには)ビダルという強烈な選手がいるので、できたらユニフォーム交換できればいいなと(笑)。そのためには試合に出ないと」

 チリ戦の2日前。ミックスゾーン取材に応じた前田大然は、このようなコメントで記者たちの笑いを誘った。もちろん冗談のつもりで言ったのだろうが、少なからず本音も含まれていたのかもしれない。他の選手からも「自分たちの力がどれだけ通用するか」といった趣旨のコメントが聞かれて、いささか謙虚さが前面に出過ぎているように感じられた。A代表に初めて呼ばれた選手が多いのだから、仕方がない部分は確かにある。それでも「お客さん」気分を払しょくしておかないと、厳しい現実に直面するのは間違いないだろう。

 南米諸国にとって、コパ・アメリカがどういう大会なのか。招待国であるわれわれも、最低限の理解をしておく必要がある。第1回のコパが開催されたのは1916年。今から100年以上も昔の話だ。アジアカップ(第1回は56年)や欧州選手権(60年)よりも、さらにはW杯(30年)よりも歴史と格式のある大会なのである。開催年は2年ごとだったり4年ごとだったり、さらには偶数年だったり奇数年だったり、いろいろ変遷はあった。それでも今に至るまで、連綿と大会は続けられてきたのである。

 もっとも、南米サッカー連盟の加盟国は、わずかに10。しばらくは予選なしの10チームでコパ・アメリカは開催されてきたのだが、グループステージにしてもノックアウトステージにしても、どうにも数字的に収まりが悪い。そこで93年大会から、南米以外の国々を招待して12カ国で開催するフォーマットが導入される。最初は北中米カリブのメキシコや米国が参加していたが、やがて遠くアジアにも声がかかるようになり、99年のパラグアイ大会には日本も招待されることになった。

 この大会に参加した日本は、2つの点で今回の代表と異なっていた。まず、純然たるA代表のメンバーであったこと(前年のW杯フランス大会に出場した選手が13人含まれていた)。そして、招集メンバー23名全員が国内組であったこと。いずれも、20年という時の隔たりを感じさせるエピソードである。ペルー、パラグアイ、ボリビアと対戦して、結果は1分け2敗のグループ最下位。当時の最多キャップ数122を誇った井原正巳は、この大会で代表のキャリアを終えることとなった。そしてコパでの惨敗を受けて、当時のフィリップ・トルシエ監督は、日本代表の世代交代を一気に進める決断を下すこととなる。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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