元なでしこ監督、佐々木則夫氏が語る「2011年女子W杯優勝の舞台裏」

吉田治良
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なでしこを世界王者に導いた佐々木則夫前監督。放任主義に見えて、“仕込み”の段階では意外にも── 【写真:田中研治】

 東日本大震災が発生した2011年。被災地はもちろん、日本中の人たちに元気と感動を与えてくれたのが、なでしこジャパンの快進撃だった。ドイツで行なわれた女子ワールドカップ(W杯)で、地元ドイツや強豪アメリカを撃破して初優勝──。果たして、あの快挙はいかにして生まれたのか。当時のなでしこジャパン監督、佐々木則夫氏が舞台裏を明かしてくれた。

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選手が迷った時に立ち返れる場所を作っておく

──いきなりですが、2011年のW杯に臨むにあたって、佐々木さんのなかで優勝できるという手ごたえはあったのですか?

 振り返れば、前任の大橋(浩司)監督の下で女子代表のコーチを務め、U-17の監督を兼任していた頃から、予感めいたものはありましたね。彼女たちに僕が目指す「全員が連携、連動して攻守にアクションするサッカー」を教え込めば、何か面白いことが起きるんじゃないかと。というのも、それ以前に指揮していたNTT関東(大宮アルディージャの前身)や大宮アルディージャユースと共通点が少なくなかったからなんです。

──どんな共通点が?

 その2つのチームとも、決して身体能力が高い選手がそろっていたわけではありませんでしたが、全員がとても献身的で、組織的に戦うことである程度の成功を収めていました。チーム戦術を重んじながら、ハードワークをすることで個を生かす。なでしこに関わるとなった時に、男女の違いはあっても「よく似ているな」と感じたんです。

──その後、退任した大橋監督の後を受け、07年12月にコーチから監督に昇格しますが、同時にU-19の監督も兼任されましたね。

 当時のU-19には熊谷(紗希)、岩渕(真奈)、中島(依美)など、将来のA代表候補がいました。彼女たちに戦術的なエキスを注入すると、細かいパスワークなんかもみるみる上達するし、これはいけるかもしれないと思いましたね。

──監督として初めて臨んだのが、08年2月の東アジア選手権でした。そこでいきなりなでしこジャパンに初タイトルをもたらします。

 あれがまさに「ステップ1」でしたね。そこで優勝して、「このサッカーでいけるんだ」と選手たちが実感できた。ただし、当時はあくまでも我々コーチ陣が主導のチームで、判断の比率で言うと「5のうちの4」が我々だったんです。「こういう時はこう動け」というように、チーム戦術の基本的な約束事、原理原則を徹底して教え込む段階でした。

──同じ年の夏に行われた北京五輪を迎える頃には、その比率もだいぶ変わっていたのでは?

 いえ、あの時もまだまだコーチ陣主導でしたね。4位にはなりましたが、「ステップ2」に到達したに過ぎません。ですが、そうやって戦術的なベースが整ってくると、次第にオートマチックに機能し始めるというか、何も言わなくてもピッチの中で、自分たちで判断し、軌道修正できるようになっていったんです。

──選手に任せるスタンスにシフトしたのは?
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著者プロフィール

1967年、京都府生まれ。法政大学を卒業後、ファッション誌の編集者を経て、『サッカーダイジェスト』編集部へ。その後、94年創刊の『ワールドサッカーダイジェスト』の立ち上げメンバーとなり、2000年から約10年にわたって同誌の編集長を務める。『サッカーダイジェスト』、NBA専門誌『ダンクシュート』の編集長などを歴任し、17年に独立。現在はサッカーを中心にスポーツライター/編集者として活動中だ。

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