西岡剛が激白「戦力外は通過点」 イチローの言葉で確信できた進むべき道
「野球選手としては一回死んでいる」
西岡の運命を大きく変えたのが、2014年に福留と激突してのケガ。地道なリハビリを経て復帰した 【写真は共同】
あの時は、やめると決心していたんですよ。手術もするつもりなくて。ちょうど結婚した年で、妻が明るく「大丈夫?」って病室に入って来たのをすごく覚えています。実績としては2000安打を打っているわけでもなく、名球会に入れるような選手にはなれなかったけど、06年のWBCや北京五輪、日本一も経験したし、アメリカにも行けた。経験という点では一通りの景色は見られたから、もういいかなって。あと、何が一番嫌かって、プロアスリートがまず歩行練習からリハビリを始めなきゃいけない。それが苦痛なんですよ。だから、やめようと思った時点で、僕は野球選手として一回死んでいるんです。
――結果的に手術を決断した理由は?
手術せずに自然に治す保存療法もあるんですが、再断裂のリスクが手術する場合と比べて20〜30%アップするらしい。それを聞いた妻が「私生活でも今後のリスクは減らしておいた方がいい」って言ったんで、手術しただけなんです。
――ではなぜ復帰しようと?
入院中、病院内を車いすでうろうろしていた時に、10歳くらいの子が走って来て「サインください」って言うから書いたんです。その子は「頑張って復帰してくださいねー」と言って去って行ったんですけど、後で病院の先生から小児がんで入院している子だと聞きまして。俺より苦しんで戦っている人がいるのに、なんて俺は弱くなっているんだと。その後、がんと闘う子たちと交流する時間を持ちました。懸命に生きようとしている姿をまじまじと見た時に、アキレス腱断裂っていうのはケガとしては全然大したことないと。僕のメンタル次第だと思って、復帰しようと思えたんです。
悲鳴を上げる背中に好転の兆し
打率.423(4月28日現在)を記録するなどBCリーグ開幕から好調の西岡剛(左) 【(C)TOCHIGI GOLDEN BRAVES/photo by:高村渉】
ストレッチでこの箇所を柔らかくしたらどういうプレーにつながるか、とかを考えて。今までできなかったことを続けてみようと始めて、今で3年。そしたら、だんだんと体が動くようになってきたんです。その前に戦力外を受けたわけですけど、まだ取り組み方を変えて2年目やった。そこでやめたら前に逆戻りだと。だから、僕の中では戦力外は通過点。ショックとか無かったんです。
――どう変化を感じていますか?
14年に福留(孝介)さんとぶつかった時(※編注:守備で飛球を追った際に交錯して鼻骨骨折や左肩脱臼などを負った事故)の影響で、背中の神経痛がすごく出るようになっていて、去年も背中がピキッてなるのを8回繰り返してるんですよ。でも、それが消えてきている。だから今、野球が楽しい。本塁打も出るようになってきた。それはリーグのレベルの差とかじゃなく、痛みをごまかさない打ち方ができているということです。福留さんとぶつかったのだって、当時から体のことに対して気をつけていれば防げたかもしれない。当時の体重は87キロくらい。10年に首位打者を取ったときが82キロで、今も81〜82キロ。今の方が、明らかにフライのボールに到達するスピード感は速いんですよ。だから、2歩でも3歩でも速く落下地点に到達して、福留さんを制止して捕れたかもとも思うんですよ。
――この3年、継続してきたからこそ新たな可能性が見えたと?
継続してきたことを継続するのが、一番難しいじゃないですか。体のチェックを兼ねて毎朝ランニングすると決めているんですけど、「今日はしたくない」っていうのは毎日ですよ。だるい作業やなと思って始める。でも体が温まってきたら楽しくなる。その快感を覚えてしまったんで、多分続けられているんです。野球をやるって決めた以上は、やらないとダメですよね。自分の体がどう反応してくれるのかというのを楽しんでいます。
――まったく迷いなく、突き進んでいるように感じます。
17年のオフかな。イチローさんと一緒に自主トレをしていたんですよ。その時に「今、すごくいい目をしているね」って言われて。その言葉が、今から向かおうとしている方向が間違っていないんだなという確信につながったんですよ。僕のことをどう見てくれていたかは分からないですけど、その目が継続できるのであれば「いいね」って感じやった。自信になりましたね。
<後編に続く>
(企画構成:株式会社スリーライト)
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西岡剛(にしおか・つよし)
【撮影:中島奈津子】