連載:日本バスケの歴史を変える男の物語

「君は、八村塁を見たか!」 田臥勇太の衝撃から14年…歴史が変わる

丹羽政善

かつて田臥勇太がいた世界を思い出す

ゴンザガ大で活躍する八村塁。今年6月のNBAドラフトで上位指名が有力視されている 【Getty Images】

 今から14年以上も前のことになる。2004年10月、アメリカ・アリゾナ州フラッグスタッフにあるノーザン・アリゾナ大のジムに田臥勇太(現栃木ブレックス)がいた。

 フェニックスからは北へ車で約2時間半の距離。手前には赤褐色の岩山が連なり、パワースポットとしても知られるセドナという観光地がある。人の流れはそこで止まり、フラッグスタッフまで足を伸ばす人は少ないが、言わずと知れた高地トレーニングのメッカだ。

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 標高約2100メートル。多くの水泳選手が、トレーニングをする地としても知られ、そこでフェニックス・サンズのキャンプが行われていたのである。

「ハッ、ハッ、ハッ」

 少し走れば、息が上がる。すでにオールスターにも出場していたショーン・マリオンが膝に手をつき、大きく体全体で息をしていた。そのとき、田臥もこう言って苦笑した。

「出だし、きついですね。アップとか、結構息上がります」

 もちろん、彼一人ではない。

「みんな上がっていました」

 キャンプが始まって2日目の午前練習が終わった後、田臥はふくらはぎをマッサージローラーでほぐしながら取材に応じたが、ふと彼が口にしたこんな一言を機に全体を見渡したとき、さまざまな思いが去来した。

「ああやってスタメンでやっている連中でも、最後までシューティングを残ってやっている」

 コートの上にはマリオンも、その後、7度のオールスターに選ばれ、2018年までプレーする若きジョー・ジョンソンも、その年から2年連続MVPを獲得するスティーブ・ナッシュもいた。

 田臥は紛れもなく、その一部だった。

2004年、日本バスケ史に刻んだ1ページ

2004年、日本人初のNBAプレーヤーとなった田臥勇太。開幕戦を含む4試合に出場した 【写真は共同】

 NBAを現地で取材し始めたのは、1994年2月のこと。ミネアポリスで行われたオールスタゲームが最初で、その後は住んでいたシアトル、インディアナポリスを拠点として取材。インディアナポリスでは、たまたまペイサーズの試合を見に来ていた田臥にも会ったことがある。

 田臥がNBAでデビューした2004年といえば、イチローが262安打を放ち、ジョージ・シスラーの年間最多安打記録を更新した年とも重なる。

 大リーグではもう日本人選手が珍しくなく記録さえ作ってしまう時代だったが、NBAではコートに立った日本人選手がいなかった。

 田臥もその前年、ナゲッツの一員としてプレシーズンゲームには出場したが、最後まで残ることはできなかった。

 やはり無理なのか――。

 しかし、2度目の挑戦となった2004年、たたき続けた扉が開こうとしていた。

 田臥が続ける。

「昨日、ナッシュに言われたんですよ。『ミスを恐れずに、やっていった方がいい』って」

 何気ないそんな会話自体、こんな時代が来たのかと、感慨深かった。

 田臥は結局、開幕ロースターにこそ名を連ねたものの、4試合、計17分に出場しただけで、チームを離れることになった。7得点、3アシスト、4リバウンド。それが、彼がNBAで残したすべて。

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著者プロフィール

1967年、愛知県生まれ。立教大学経済学部卒業。出版社に勤務の後、95年秋に渡米。インディアナ州立大学スポーツマネージメント学部卒業。シアトルに居を構え、MLB、NBAなど現地のスポーツを精力的に取材し、コラムや記事の配信を行う。3月24日、日本経済新聞出版社より、「イチロー・フィールド」(野球を超えた人生哲学)を上梓する。

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