タイと日本のろう学校の“橋渡し役”に 相原豊がサッカースクールで叶えたい夢
“静かに”ボールを蹴るサッカー少年たち
タイ、バングラデシュ、ウガンダでプロ選手としてプレーした異色の経歴を持つ相原豊 【細江克弥】
「タイに来ない?」
特段の予定もなかったので「いいね」と即答し、ほとんど夏休み気分で飛行機に乗った。目的地であるシラチャの町まで、バンコク・ドンムアン空港からタクシーを飛ばすこと約1時間半。町のフットサル場に到着すると、そこではたくさんの子どもたちが“静かに”ボールを蹴っていた。
その中心に、相原豊(あいはら・ゆたか)はいた。
いまから25年ほど前のこと。中学時代のチームメートである彼は、神奈川県下ではそこそこ名の知れたサッカー少年だった。
理由は2つある。
まずは、単純にサッカーがうまかったこと。左利きの左ウイングだったユタカは、足裏を使った引き技やダブルタッチを得意とするドリブラーだった。カラーコーンを並べたドリブル練習は誰よりも速く、パスを受ければ敵の間を縫うようにして、すいすいとボールを運んだ。
もうひとつの理由は、先天性の左手部欠損というハンディキャップを抱えていること。わかりやすく言えば、左手首から先がない。
「サッカーがうまいこと」と「左手がないこと」に直接的な因果関係がないことは、大人になれば誰でも分かる。そもそもサッカーは手を使わないし、ユタカの場合は「手」がないだけで、体も心も健康そのものだ。
ただ、子どもの場合はそう簡単じゃない。
左手がない“のに”、サッカーがうまい――。自分だけでなく、同じ地域で育ったサッカー少年のほとんどが、そんな見方をしていたに違いない。何しろ、身体的なハンディキャップを抱える友達はユタカが初めてだった。
あれから四半世紀以上もの歳月が流れた今、移り住んだタイで「Yutaka Football Academy」を開いたユタカは、現地の子どもたちにサッカーを教えている。シラチャのフットサル場にいた“静かな”サッカー少年たちは、地元のろう学校に通う耳の聞こえない子どもたちだ。
“プロサッカー選手”として3カ国でプレー
自身もハンディキャップを持つ相原豊は、タイで耳が聞こえない子どもたちにサッカーを教えている 【細江克弥】
1979年に神奈川県藤沢市で生まれた彼は、高校卒業後、神奈川県の社会人1部リーグでプレーした。プロになる実力はなかったが、どうしてもプロになりたかった。だから「JリーグのすべてのクラブとJリーグを目指すすべてのクラブ」に直接電話をかけ、自らを売り込んだという。もちろん、まともに取り合ってくれたクラブは1つもない。しかし、そんな活動の中で出会った人がサッカースクールを運営していると聞き、自分もその道に進みたいと考えるようになった。
「でも、なんの実績もない単なる“サッカー好き”がサッカースクールを開いたところで、誰も来てくれないと思ったんだ。当時はまだ少なかったけれど、いずれ、引退したJリーガーがこぞってサッカースクールを開く。そんなところに勝てるわけがないから、せめて自分も“元プロ選手”という肩書きを持たなきゃいけないと考えたんだ」
日本でプロになれないなら、別の国でプロになればいい。
異常なまでの行動力は、子どもの頃から変わらない。たまたま知り合ったラオス人を頼ってタイに向かい、草サッカーで作った仲間のツテをたどってプロクラブのテストを受けた。そこでたまたま決めたゴールが評価されて“タイリーグ史上2人目の日本人選手”となり、1年間プレーした。
しかし、リーグ戦ではたいした結果を残すこともできず、契約は1年で終了した。今度は「日本人選手が行ったことのない国」を目指してバングラデシュへ飛び、サッカー協会に直談判してプロクラブのテストを受けた。結果は合格。無茶をする性格のせいで身の危険に遭遇することもあったが、メンタル的な“ゾーン”に突入してしまった彼は、「もっとパンチのある国に行ってみたい」とアフリカ大陸をターゲットとした。
バングラデシュのチームでは、同じ“外国籍選手”として2人のウガンダ人と一緒にプレーした。彼らが「いい国だ」と自慢げに言うものだから、目的地をウガンダに定めた。ここでも青年海外協力隊として現地に派遣されていた日本人スタッフの世話になり、知り合った校長先生の口利きでプロクラブのテストを受けることになる。
「本当にたまたま、バングラデシュ時代のウガンダ人選手から電話がかかってきて、テストを受けようとしていたクラブのコーチが彼の親友だということがわかった。で、見事に合格。5試合くらい出場したかな。給料は1年で3万円くらい。サトウキビで支払われたこともあったっけ(笑)」
タイでは「ナカタ」、ウガンダでは「パク・チソン」と呼ばれたユタカは、そうして計3カ国でプロのサッカー選手になった。2006年には日本に戻り、3年間、横浜のとあるスクールでコーチを務めた。
「選手ではなく、“サッカー小僧”を育てたい」
スクールにゲスト参加したタイでプレーする選手を“手話の拍手”で迎える子どもたち 【細江克弥】
「最初は日本でろう学校に通う子どもたちを対象にしたサッカースクールを開こうと思った。ただ、そういう学校に話を持って行っても、なかなか取り合ってくれない。やっぱり、まずは“結果”を出さなきゃいけない。現実的な話、タイには日本の企業がいっぱいあるし、日本人の子どももたくさんいる。いずれスポンサーになってくれる企業もあるかもしれないと思ったから、タイを選んだ」
移り住んだシラチャは、世界でも有数の日本人街として知られている。資金は100万円。グラウンドを見つけ、送迎バスを借り、運転手を雇って「Yutaka Football Academy」はスタートした。最初のスクール生は、たった3人しかいなかった。
それでも、地道に続けること10年。3人が15人になり、リーマンショックの余波が薄れるとさらに倍増し、日本人の子どもたち、タイの子どもたち、孤児院の子どもたち、ろう学校の子どもたちを合わせて、スクール生は100人を超えた。
同級生の自分に言わせれば、“あのユタカ”がいまや立派な経営者である。スクールの指導方針は、いかにも彼らしい。
「大きく言えば、何にもないんだよね。サッカーが好きになってほしいだけで、今、俺と一緒に過ごしている時間が、彼らにとって一番楽しい時間であってほしい。そこにサッカーがあって、仲間がいる。だから、選手を育てようというつもりはあまりなくて、あえて言うなら“サッカー小僧”を育てたい。ちゃんと人間くさい子どもと言うのかな。だから、サッカー指導者というより教育者。偉そうだけど、そっちの意識のほうが強い。
それが持論だから、いかにも“練習っぽい練習”は一切やらない。ゲーム形式ばかり。サッカーは誰かに教わって伸びるものじゃないと思っているし、自分の経験上、技術や戦術よりも戦うことが大事。頭でっかちな指導者にはなりたくないから、俺がうるさく言っているのは『挨拶(あいさつ)だけはちゃんとやれ』ということだけ。それに対しては本気で怒るよ。せっかくサッカーをやっているのに、人として成長しないんじゃ意味がなくなっちゃうから。子どもを預かっている身として、その責任だけは果たしたい
これからの目標も、子どもたちに伝えたいことも明確だ。
「子どもたちに偉そうなことを言うばかりじゃなく、ちゃんと見せなきゃいけないと思うんだよね。俺も頑張ってるぞって。だから、何でもいいからサッカーで一番になりたい。障害者である自分が一番になろうと思ったら、障害者と一緒に何かを作っていくことだと思う。誤解を恐れずに言えば、健常者が障害者に向けて『前向きに頑張ろう』と言うより、障害者が言ったほうが説得力がある。『オレにも障害があるけど、それでもプロになれたんだ!』って」
思い浮かべた第一歩は、タイのろう学校と日本のろう学校を結ぶ橋渡し役になること。両国の子どもたちが交流するイベントを14年にスタートし、1年目はタイの子どもたちを連れて日本を訪れた。以降、このイベントはタイと日本で交互に開催され、18年に第5回を迎えた。