オランダが誇るキックの名手が代表引退 スナイデルとのお別れは「おでこ」で

中田徹

キックの名手、でも別れのあいさつは「おでこペンペン」

なんとピッチ上に「応接間」が登場。家族でソファに座るスナイデル 【Getty Images】

 試合終了後にはセンターサークルに“応接間”が設けられ、家族とともにソファーに座りながらスナイデルはテレビを見た。そこに映ったのは盟友アリエン・ロッベン、ラファエル・ファン・デル・ファールト、ディルク・カイト、かつての監督ルイス・ファン・ハール、ベルト・ファン・マルワイク、ディック・アドフォカート、ジョゼ・モウリーニョ、さらに父、母、弟らのねぎらいのメッセージだった。そして彼らは最後に、おでこをペンペンと笑いながらたたくのだった。

 おでこをペンペン――。それはスナイデルのシンボルだった。あれは2010年7月2日、W杯南アフリカ大会の準々決勝だった。前半、0−1で済んだのが奇跡と思えるくらい、オランダはブラジルに押されていた。だが、53分にスナイデルの悪魔のFKがブラジル守備陣の混乱を誘って1−1とすると、68分にはロッベンが蹴ったCKをニアでカイトが後ろへ逸らし、フリーになったスナイデルが2−1とする決勝ゴールを頭で決めたのだ。

「頭だ、頭!」。そんなことをスナイデルは叫んでいたのだろう。彼はおでこをペンペンたたきながら、ピッチの中を疾走した。オランダサッカー史上に残る名勝負は、スナイデルの“おでこペンペン”とともに人々の記憶に残り、オランダ対ペルーの開催を知らせるポスターにもなった。そして、セレモニーも終わり、ピッチを一周するスナイデルに対し、観客席のファンもまた、おでこをペンペンとたたきながら見送った。

初の“伝統の一戦”から、オランダの英雄になるまで

ファンもW杯での名シーンを大きなフラッグにして、母国の英雄を見送った 【Getty Images】

 03年2月3日のアヤックス対フェイエノールトが、スナイデルにとって初のデ・クラシケル(両クラブの間で行われる伝統の一戦)だった。1−1で終わったこの試合に関して、私は内容をもう覚えていないが、少なくともスナイデルのプレーに魅了され、試合終了直後に声を掛けたことは覚えている。

「ちょっと試合前は胃が痛くなったけどね。でも、試合が始まれば全く問題なくプレーできたよ」

 そう笑いながら、当時19歳の青年は答えてくれた。

 それから間もなく、スナイデルはオランダの英雄となった。舞台は04年のユーロ(欧州選手権)予選、スコットランドと戦ったプレーオフだった。アウェーでの第1戦を0−1で落としたオランダは、崖っぷちに立たされていた。第2戦は4日後の03年11月19日、場所は改称前のアムステルダム・アレーナ(現ヨハン・クライフ・アレーナ)だった。

 第1戦でベンチにすら入らなかったスナイデルは背番号8を付けて躍動。14分にはフィリップ・コクーのパスを受けてドリブルで持ち込み、ペナルティーエリアのすぐ外からゴール左隅に先制ゴールを決めて、チームメートだけでなくオランダ国民をプレッシャーから解放した。そして自ら蹴ったFKとCKからアンドレ・オーエル、ルート・ファン・ニステルローイ、フランク・デ・ブールのゴールをアシストした。

 結局、オランダは6−0でスコットランドに大勝したが、最初の4ゴールはスナイデルの1ゴール3アシストによるものだった。

 ユーロ08のイタリア戦、フランス戦のゴールも素晴らしかった。スナイデル本人も、あの大会のパフォーマンスが最高だったと振り返っている。14年のW杯ブラジル大会で、オランダが下馬評を覆して3位になったときも、スナイデルは大会前、必死にコンディションを上げて本番に間に合わせ、メキシコ戦ではパンチの効いた鋭いボレーシュートを決めた。

 そのたぐいまれなキックテクニックから、数々の名ゴール、名アシスト、素晴らしいゲームメーク、チャンスメークで人々を魅了したスナイデル。しかし、最後に彼のシンボルとなったのは、決して得意でないヘディングでゴールを決めた直後の“おでこペンペン”。それは、彼が小さな巨人であったことの証しだろう。

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著者プロフィール

1966年生まれ。転勤族だったため、住む先々の土地でサッカーを楽しむことが基本姿勢。86年ワールドカップ(W杯)メキシコ大会を23試合観戦したことでサッカー観を養い、市井(しせい)の立場から“日常の中のサッカー”を語り続けている。W杯やユーロ(欧州選手権)をはじめオランダリーグ、ベルギーリーグ、ドイツ・ブンデスリーガなどを現地取材、リポートしている

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